あの、渡鹿野島(わたかのじま)へ行ってきました。

非常に強い台風14号(ナンマドル)が日本列島に近づく9月18日。三重県志摩市にある渡鹿野島へ行ってきました。意外と雨には降られませんでした。

渡鹿野島はかつて「売春島」と呼ばれていた過去を持っていて、そのことから一部の好事家の中では有名な島でもあります。場所はこのあたりです。

渡鹿野島の位置

まずは名古屋から近鉄またはJRで鳥羽駅を経由して乗り継ぎ、最寄りとなる近鉄「鵜方駅(うがたえき)」へ向かいます。

近鉄「鵜方駅」

鵜方駅はあの総合リゾートテーマパーク「志摩スペイン村」の最寄りでもあります。

渡鹿野島へ行くには渡船する必要があり、鵜方駅からはバスで渡船場まで行く必要があります。※赤矢印を船で渡ります。

渡鹿野渡船場へのバス経路
鵜方駅の三重交通バス4番バス停

4番のバス停から安乗(あのり)行に乗り約20分「渡鹿野渡船場(わたかのとせんじょう」で降ります。バスの本数は少なく、戻りの終バスも時間が早いので注意が必要です。

※なぜか公式と思われる渡鹿野島案内ホームページには6番となっているのでご注意を。

渡鹿野島案内ホームページ

「渡鹿野渡船場」バス停
渡鹿野渡船場(本土側)

渡鹿野渡船場からは船に乗って渡るのですが船の時刻表はありません。幾艘かのポンポン船が頻繁に行き来をしておりタイミングで乗り込むことになります。乗船時間は約3分。渡船する人はそこまで多くはありませんが、一人でもすぐに渡してもらえるので待ち時間のストレスはありません。渡船する人がいない場合、船は海上で待機していて、人を見つけると来てくれます。また夜間の渡航は人を見つけづらいからか、渡船場内にあるブザーを押して呼ぶことになります。ただ本当の深夜でも来てくれるのかは分かりませんし、海の状況次第で渡船できないことも当然あります。警報が出たらダメだと運転手の人は言ってました。

渡鹿野島へのポンポン船
夜間に船を呼ぶブザー

あいにくの台風接近で天気はすぐれませんが片道200円の乗船代を払って島へと向かいます。

乗船代200円は受け皿へ

さて、ここで渡鹿野島についてザっと説明をしておきます。

渡鹿野島

渡鹿野島は人口200人未満、周囲約7kmの小さな島です。

江戸時代。江戸と大坂を結ぶ海路の中継地点として賑わいました。紀伊半島を周る際に、悪天候をやりすごすため、「風待ちの島」として多くの船が渡鹿野島に寄港して様子をみていたそうです。そのころから立ち寄る多くの男を相手としたサービス業が成立しはじめ、「遊郭」を形成して産業の大きな柱となっていたそうです。

しかし、そうして形成された遊郭も1957年の売春防止法によって一掃されます。

とはいえ一旦は廃業の憂き目にあいながら、目の届きにくい離島という地の利からか、「稼げる島」として遠方から多くの女性が集まり、売春を斡旋する「置屋」システムが始まります。

こうした産業は、昭和の高度成長期に併せた流れもあって大きく発展し、公然のタブー「売春島」として夜の噂話として知られるようになったとされます。夕暮れの目抜き通りには人があふれ、”真っ直ぐ歩けない”ほどの賑わいをみせたそうです。ついには、この小さな島にストリップ劇場やパチンコ店、ゲームセンターといった設備が登場し、女の子達の子供をあずける保育所まであったそうです。

で、まあ噂の一端として、取り締まりをした三重県警の警察官が置屋の女将と”ねんごろ”になって置屋のマスターになったというミイラ取りの話や、反社会的勢力とつながって経営をしていたホテルの話、そこに暮らした女性たちの悲喜こもごもがあったそうで、そのような欲望と金、暴力の実態については、2017年にベストセラーとなったノンフィクション作家 福島瑞穂さんの著書『売春島 「最後の桃源郷」渡鹿野島ルポ』に詳しいのでご興味があれば。

しかし現在、島の性産業は急激に衰退してしまい見る影もありません。バブル後の日本経済の凋落という世情に加え、2016年の”伊勢志摩サミット”によってトドメが刺されました。伊勢志摩サミットの会場に選ばれた賢島は、渡鹿野島の目と鼻の先にあり、サミット開催に向けて激増した当局による露骨な訪島によって島の夜の火は消されてしまったのです。

渡鹿野島側の渡船場
「ホテルつたや」
「ホテルつたや」入口
「スナック青い鳥」
名も無い飲食店跡
蔦だらけのビル
「ホテル大阪屋」
島の猫たち

事件の舞台となった「ホテルつたや」(廃業)や、その裏手にある島のアイコンともいえる「スナック青い鳥」(廃業)といった各名所を見て回りましたが、そのほとんどが廃墟となっており、島に多く棲む痩せた猫たちに見守られながら、忘れられる時間の流れを待っているようでした。

一方、今でも在住している島民はいますし、新たに10億円をかけて整備されたビーチもあって観光で島を訪れる人や釣り客も少なからずいます。

営業する雑貨店
営業する飲食店
「温泉旅館 福寿荘」

こうして見ると、島に残されたタブーの痕跡はあるものの、かつて週刊誌にかき立てられインターネットにも深く刻み込まれているセンセーショナルな状況は既に存在していないことがわかりました。その一方、そうした負の遺産の横で、本来の風光明媚な渡鹿野島の文化を改めて作り上げるべく住まい働く人々がいることも確認できました。「温泉旅館はいふう」にいたっては全室オーシャンビューの温泉露天風呂付客室を売りとして、専用の船でしか入館できないという離島ならではの非日常を演出しています。

また2019年の年末には「島おこし」をテーマにジャニーズのアイドルグループNEWSが、自身の番組「newsな2人」で渡鹿野島を訪れてwelcomeイルミネーションの設営などを行い、新たな島のイメージ作りとして話題となりました。

昼間なのでライトアップされていないイルミネーション
「newsな2人」訪島のお知らせ
welcomeボード

それだけではありません。2022年には新型コロナウィルス禍によって遠方へいくことが困難となった修学旅行の滞在先として、大阪の高校が渡鹿野島を訪れました。修学旅行生が来ることは島初めてのことで関係者は大喜び。以後いくつかの小中高校が修学旅行で訪れる予定だそうです。離島ならば生徒の管理もしやすいですね。

さて、本稿では渡鹿野島の過去の文化を否定する意図は当然にありません。人々が生きるために行ってきた生業の可否を判断することは神様にしか出来ないと思っているからです。ありのまま。確実にあった歴史を「気に入らない」という短絡的な感情で蓋をしてしまう歴史修正主義者にはならないよう、そして今の有り様も同格で観ておきたくて訪問したのが本音です。インターネットを見回せば、煽情的な物言いで、耳目を集めるために騒ぎ立ている者も見かけますが、そういった下劣な部外者にはなりたくないなと自戒をしつつ訪れました。

そういう意味をふまえ、過ぎ去った時のかすかな臭いはするものの、生まれたての若い芽の色鮮やかさに嬉しくなったというのが感想です。そしてまたいつか、出来れば、よく晴れた夏のビーチを楽しみに来れたらいいなと思い帰路につきました。

陸前高田を再訪してきました。

あの日から11回目の3月11日の朝。一ノ関から陸前高田を目指しました。

JR一ノ関駅前(西口)

内陸部に位置する一ノ関から陸前高田を目指すには、太平洋側の気仙沼を経由して北上する必要があります。

乗り継ぎのタイミングもありますが片道2時間ちょっと、電車またはバスといった交通機関があり、電車は大船渡線で約2時間ごとに1本と限られており、バスはさらに本数が少ないです。

電車で行くにしてもバスにしても一旦、気仙沼で下車してBRT(バス高速輸送システム)に乗り換えて陸前高田を目指すことになります。

BRT(大船渡線)のバス

かつて気仙沼から陸前高田を結ぶ大船渡線は一般的な電車でしたが、2011年に鉄道が不通になったことで応急でバス運行が始まり、それまでの利用者減少もあって鉄道での再開は断念されたそうです。

そんなこんなで気仙沼駅からBRTに揺られて30分ほど。「奇跡の一本松駅」に到着しました。

陸前高田「奇跡の一本松」

前回、訪れた時と比べると柵なども設けられ綺麗になっていました。一本松の保存にはいまだ賛否両論があるそうですが、やはり県外から見える象徴的な震災遺構の一つとして、果たしている役割は非常に大きいなあと改めて感じました。

加えて「東日本大震災津波伝承館~いわてTSUNAMIメモリアル」が新たに出来ていて「道の駅高田松原」が併設されていました。「奇跡の一本松駅」の目の前にあります。

東日本大震災津波伝承館

「東日本大震災津波伝承館」は2019年9月22日に開館し、主に岩手県の三陸側が歴史的に見舞われてきた津波、東日本大震災の被災状況や復興の様子を写真や映像、被災物等の展示でみせる県の施設です。

「東日本大震災津波伝承館」の案内
三陸地方の津波の歴史
被災した消防車

昨年に訪れた福島県双葉町の「東日本大震災・原子力災害伝承館」ほどの規模ではありませんが、充分な情報量をコンパクトにまとめられており、構えずに見れる距離感の近さがあります。何より東日本大震災での被災者さんが記された当時の書き残しには涙を止めておくことができない胸が詰まる気持ちになりました。また、おそらく地元の人であろうスタッフの方もフレンドリーでとても親しみやすさを感じる施設です。

昨年の双葉町を訪れた際の記録です。↓

「東日本大震災津波伝承館」から防潮堤への眺め

「東日本大震災津波伝承館」の周りはとても綺麗に整備されており、新たに設けられた防潮堤へと続く階段を上ると三陸の綺麗な海が望めます。

綺麗に整備された防潮堤の上

この日は多くの方々が追悼に訪れていました。

多くの方々の献花

「東日本大震災津波伝承館」と「道の駅高田松原」、「旧道の駅高田松原タピック45(震災遺構)」、防潮堤、奇跡の一本松を含む歩道区画は「高田松原津波復興祈念公園」として以前とは比べ物にならないほど歩きやすく綺麗に整備され、ちょっとした憩いの場になっており、週末には非常に多くの観光客が訪れているそうです。

奇跡の一本松と陸前高田ユースホステル(震災遺構)
旧道の駅高田松原タピック45(震災遺構)

また以前は「奇跡の一本松駅」近くに「一本松茶屋 たがだ屋」さんという地元のお土産と飲食を営む急誂えのお店があったのですが、2019年の大雨で浸水したことによって閉店し、入れ違いで開設された「道の駅高田松原」内に移られていました。

陸前高田市街地へ向かいます。

「高田松原津波復興祈念公園」から徒歩約10分くらいで陸前高田市街地に着きます。

こちらも以前はスーパーマーケットやカジュアル衣料、書籍、飲食店、図書館等が一塊となった商業モール「abasseTAKATA(あばっせたかた)」だけがポツンとあっただでした。現在では周辺に多くの店舗が集まり、公園広場などもでき、新たに整備された市民会館と中央公民館の複合施設「陸前高田市民文化会館~奇跡の一本松ホール」も隣接しています。3.11追悼式典はこちらで行われました。

追悼式が行われた「陸前高田市民文化会館~奇跡の一本松ホール」
「abasseTAKATA(あばっせたかた)」
新たに出来ていた商業店舗群

せっかくなので今回は新たに出来た飲食店の一つ「鶴亀鮨」さんで昼食をいただきました。

たまたまなのですが、先日NHKでこちらのお店の大将が出ていらして、なんとなく「行きたいなあ」と思っていたのです。

「鶴亀鮨」さん

「鶴亀鮨」さんは昔から地元で人気のお店だったそうです。震災後は臨時の店舗でいち早く営業を再開し、新たに出来た店舗街に思い切ってお店を構えたそうです。

鶴亀鮨さんのFacebook

華やかな海鮮丼(「鶴亀鮨」さん)

しかしながら「鶴亀鮨」さんに限らず店舗街には思うように観光客が集まってこないといいます。奇跡の一本松には大勢が訪れても市街地までは流れて来ないというのです。

「鶴亀鮨」名物の”なみだ巻(ワサビ巻)”

やはり奇跡の一本松周辺で”陸前高田に来た”いう一通りの要件が満たされてしまうことで、少し移動して市街地まで行くとはなりづらい、心理的な壁があるのかもしれないなと感じました。しかし実際に来てみれば飲食店のバリエーションは豊富ですし、食べ歩きの満足度は抜群に高いので非常にもったいないなあと思います。あと簡易的でよいので宿泊施設があれば夜も盛り上がるのかな?と思いました。もちろん震災を経験して後の宿泊業というのも同様に営みづらいのかもしれませんが。

またこの日、「abasseTAKATA(あばっせたかた)」駐車場の海側に東日本大震災の犠牲者を悼む「刻銘碑」が完成公開されました。

新たに整備された「東日本大震災追悼施設」

以前は中心にある「慰霊碑」だけがあったのですが、市民からの強い要望で「刻銘碑」が慰霊碑を囲むようにして整備されました。大震災による死者・行方不明者のうち遺族から希望があった1709人のお名前が刻まれています。高台から海を臨むかたちで設置されており、見晴らしはとても良いのですが、そこには未だ整地されたままの土地が広がっている状態でした。

手を合わせ、しばらく晴れ渡った景色を眺めてから、再びBRTで帰路につきました。

陸前高田駅(BRT)

今回、陸前高田を再訪して思ったことは、11年を経てもいまだに復興への歩みは始まったばかりなのだということです。確かに前回に比べれば綺麗に整備されてはいますし、新しい施設や建物も増えています。しかしながら計画先行で進められ、中身が追い付けていないような開きを感じてしまいました。行政とは予算を組んで箱を用意するもので、それ以上でも以下でもないとは思うのですが、なんというか小綺麗な仕上がりであっても色気が無いといった感触があるのです。道は作るが動機を用意していないので、せっかくの魅力的なコンテンツがお行儀よく静かに座っているだけの”もったいなさ”を感じました。これは陸前高田以外でも同様に感じる肌触りなので、もしかすると高望みなのかもしれませんが、特に今、多少の賛否がある方が興味を引く時代でもあるので、毀誉褒貶を恐れず”気になるコンテンツ”を用意して欲しいなと思います。例えばバックパッカー向けに仮設住宅を模した安宿なんかがあったら面白がる人が出てくるんじゃないかな?とか不謹慎ながら思い浮かびました。失礼。

陸前高田。またいつか訪ねたいと思います。