あの日から干支がひと回りし、東日本大震災から12年が経ちました。
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今年は岩手県と釜石市が合同で追悼式を開くとのことから、釜石から大槌町へ訪問することにしました。
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まずは花巻から釜石へ電車で移動をしました。各駅停車や快速などありますが移動時間の目安はおよそ2時間弱。一日の電車の本数が約10本ですのでタイミングには注意が必要です。
花巻といえば詩人であり童話作家である宮沢賢治の故郷ですし、途中の停車駅には柳田邦男の「遠野物語」となった遠野市もあるため、電車や駅には「銀河鉄道」を模した装いがほどこされているなど、思わず目を引く魅力にあふれています。
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というわけで、天気も良かったので遠野市に寄り道してみました。
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本来は駅前の観光案内所にレンタルサイクルがあるのですが、冬季(12月~3月)は道路凍結などの危険があるためレンタルサービスはお休みです。なのでバスを利用しました。
遠野観光の基本中の基本は「伝承園」です。
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「伝承園」は民話の故郷である遠野のかつての暮らしぶりを見学することができます。
柳田国男の「遠野物語」は柳田翁が遠野の土淵村民であった佐々木喜善から民話を聞き集めた形式なのですが、伝承園には「佐々木喜善記念館」があり、実際に昔話を聞くことができる体験もできます。また、遠野に伝わる馬娘婚姻譚である「オシラサマ信仰」の御蚕神堂もありるなど古き遠野の暮らしぶりがリアルに感じることができます。
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さらに伝承園から歩いてスグのところにある「かっぱ淵」ではかっぱ釣りができます。伝承園でもらえる「カッパ捕獲許可証(220円)」を携え、万が一にもかっぱが釣れた際には賞金1000万円がもらえます。かっぱで一攫千金を狙うのも楽しいですね。
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以前訪れたときはかなりの水量で一つ間違うと流されそうでしたが、この日の水量は穏やかなものでした。
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魅力あふれる遠野に後ろ髪をひかれながら釜石へ向かいます。
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遠野駅からは約1時間。太平洋に面した「鉄と魚とラグビーの街釜石」の入口はJRと三陸鉄道が併設する釜石駅です。
釜石駅の脇には「サンフィッシュ釜石」と「シープラザ釜石」という鮮魚店やお土産屋さん、食堂を備えている似た施設があります。
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サンフィッシュ釜石とは、その昔、河川にかかる橋の上に鮮魚店が並んでいたその名も「橋上市場」が存在していたのですが、河川法に抵触することをきっかけに諸事情から解体され、その替わりとして2003年釜石駅前に設立された市場施設です。釜石物産センターであるシープラザ釜石と連絡通路で往来もできます。釜石でのお土産を買うならこの2施設で決まりだと思います。
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今年、岩手県の東日本大震災追悼式は、釜石市との合同で「釜石市民ホール(TETTO)」にて行われました。釜石市民ホール(TETTO)は、被災した釜石市民文化会館が解体されて2018年4月に生まれ変わった釜石市の公共施設です。釜石駅からはバスも出ていますが、少し歩けばたどり着くことができる距離で、巨大なAEONタウンに隣接しており繁華街の中心にあります。とても綺麗な施設です。
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時間が近づくにつれ多くの人が集まってきました。マスコミ関係者も大勢いました。
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式典は定刻に開始し、震災が発生した14時46分には黙祷を捧げました。来賓各位が止むことのない復興への姿勢を述べ、厳かな空気のうちに閉会しました。
続いて路線バスに乗り「鵜住居(うのすまい)駅」に向かいます。
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三陸鉄道鵜住居(うのすまい)駅前には釜石市の東日本大震災復興アイコンとして「うのすまいトモス」という施設群があります。
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ここで少し三陸鉄道リアス線の復旧を時系列で確認します。
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震災前は地図にある路線の青傍線部分が「北リアス線」、緑傍線部分が「南リアス線」、黄傍線部分はJR山田線(盛岡ー釜石)として運行していました。
2011年3月:震災直後、地域から愛された三陸鉄道は地元民の足としていち早く復旧を開始。
2014年4月:部分的に復旧を行ってきた南・北リアス線が供に全線復旧完了。
※JR山田線(宮古ー釜石)についてはJR東日本から昨年の陸前高田でも乗ったBRT(バス高速輸送システム)方式での再開を提案されるが、地元自治体がこれを拒否しました。
2019年3月:結局JR東日本からJR山田線(宮古ー釜石)の移管をうけ、三陸鉄道がリアス線として復旧完了。
とまあ、このようにJR東日本が放棄した山田線が、鉄道のまま三陸鉄道リアス線となって再開通しました。このタイミングで釜石市は鵜住居地区を永続的な復興シンボルとして2019年3月に「うのすまいトモス」を開館したのです。
「うのすまいトモス」には釜石市の追悼施設「釜石祈りのパーク」、釜石が過去からうけた震災の歴史を紹介する「いのちをつなぐ未来館」、地域のお土産販売や飲食スペース「鵜の郷交流館」といった施設があります。
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この日は無料の献花が用意されていました。
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階段を上った上部にある黒壁に東日本大震災での津波の到達線があります。
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過去から現在までに起きた地震津波についての記録を未来の防災への啓蒙として展示してあります。
また「うのすまいトモス」の近くに被災した中学校などが移転して新校舎を築いたり、エリア一帯を復旧にくじけない釜石魂の象徴として今後の発展が期待されています。
ひとしきり施設を見学して小腹を満たしました。
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鵜の郷交流館の券売機でかけそばを注文しました。ワサビが付いてくるのは珍しいですね。
そして再び三陸鉄道リアス線でお隣の「大槌町(おおつちちょう)」を目指します。
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大槌町は東日本大震災で被害を受けた多くの市区町村の中でも人口あたりの被害が非常に高かった町です。その被害の大きさから震災報道においても注目が集まることがしばしばあり、また話題の中心にもなったのが町役場職員に多くの犠牲者がでたことです。
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実に町役場職員の20%の人が亡くなったことは、震災だけに要因を求めるには困難な割合です。亡くなった方からではなく助かった人からの話しか聞けないため、事態の状況を正しく描くことが出来ないことが想像できます。
しかし近年になってNHKをはじめ各報道からその実態について輪郭のようなものが報じられるようになりました。それらによればハッキリと要因が確定されない状況を前提においたうえで、当時の役場組織が機能していなかったことが読み取れます。
そもそも町役場のあった場所は過去に浸水したことがある場所で、そのことから万が一の事態に陥れば役場を捨て、高台に避難して司令塔の拠点とする概要があったにもかかわらず実行されず、責任のある決定が遅れたことで逃げ遅れた人が大半であったというのです。
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震災を呼び水にして起きた人災ともいえる大槌町役場の被害は、町民だけでなく外部からも多くの避難を浴びました。そんなこともあって被災した町役場を震災遺構にする声も多く、外部から見る限りそれは自然な流れにも感じました。ただ一方で、見るのも辛いから解体して欲しいといった町民の声もあったりして判断が下されぬまま、ようやく2019年に解体することになったのです。
解体の決定理由として挙げられたことに”震災遺構とした場合の維持の難しさ”がありました。町役場を挟んでおこなわれた押し問答が続いた間にも、崩壊の危険があるためバリケードを作り、いたずらで入ろうとする心無い者の侵入を防ぎ、それでもゴミを投棄するといったことは後を絶ちませんでした。維持をするには当然費用がかかり、大槌町はそれほど大きな町ではないため嵩む費用の捻出に見通しが立たなかったことがあるのでしょう。こうして町役場は解体されたのです。
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一方で、町役場を残して欲しいという意見の中に「忘れてしまうから」というもあったそうで、実際に解体後は忘却してきている、という指摘もあるようです。たしかに外部の者としてみれば、初めは残した方が良いんじゃないかと思っていた自分も、事情を知るうちに、心境としてはそうであっても先立つものが無いと難しいなと思い直したのです。そういった意味で陸前高田の”奇跡の一本松”をなんとしても維持しようという判断には頭が下がりますし、地域ごとの事情もあることなので、新しい観光地を作るような軽い気持ちから維持を口にするのは、それはそれで問題だなあと思ったのです。
そして最後にこの写真を撮って思ったのです。
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よく見れば解体されてしまった町役場跡の周辺には、震災によって移設を余儀なくされたとはいえ、真新しい野球場やバスケットコートで遊ぶ若者の姿が多くみれます。この遊戯場の隣に被災した旧町役場があるのは、なんとなく似合わないなと感じたのです。
確かに震災の記憶は忘れないようにしたいですが、それが旧町役場を残すこととイコールではありませんし、未来へつなぐという意味では、忘れないことは別の方法で工夫をするとして、町の一等地であるこの広い場所を前向きな利用で復興を目指すことも立派な判断だなとおもい大槌町を後にしました。
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