トルコ記念館(串本町)へ行ってきました

雨のたびに秋らしくなる10月10日、かつては固定されていた「体育の日」にあたります。

「体育の日」は1964年の東京オリンピック開会式を記念し、1966年から10月10日が国民の祝日となったのですが、2000年からは10月の第2月曜へと異動が命じられ、今年にいたっては10月からも追い出されてしまった”都合の良い祝日”。「なんだか可哀想だな、体育の日」とパンダ柄の電車に揺られて考えていたら和歌山県のJR串本駅に到着しました。

和歌山県「JR串本駅」

良い天気です。そういえば「体育の日」は晴れの特異日でも有名でしたね。

JR串本駅から「トルコ記念館」へ向かいます。

日本とトルコ国との友好の証である「トルコ記念館」は本州最南端にある紀伊大島の東端にあります。タクシーだと20分ほど。 数は少ないのですが駅からはコミュニティバスなども出ています。停車場が多いので40~50分は覚悟しましょう。

なぜこんな遠く離れたところに「トルコ記念館」があるかというと日本とトルコ国との友好の歴史が始まった場所であるからです。

トルコ記念館

1890年(明治23)9月16日夜「エルトゥールル号遭難事件」が起きました。

当時、トルコ国の前身、オスマン帝国は1878年にロシアとの戦争に完敗し、西欧諸国の中で確固たる地位を築くのに躍起になっていました。一方で日本も明治維新をへて国際社会にデビューを果たしその地位を高めようとしていたのです。状況が近しい両国は接近し、1887年に日本から小松宮彰仁親王夫妻がオスマン帝国へ訪問したことに応えるかたちで軍艦エルトゥールル号が日本へ派遣されました。

明治天皇への謁見を終えて帰路に就いたエルトゥールル号は、日本の制止を振り切って台風の中出航し和歌山県串本町沖で岩礁に激突、破艦し22時半ごろ沈没しました。

紀伊大島の東端には樫野埼灯台があります。1870年に初点灯した日本最初の石造灯台で、現存する日本最初の回転式閃光灯台なのですが、当時、灯台職員の乃美権之丞(のみごんのじょう)が宿直中に最初の遭難者が血まみれで転がり込んできました。言葉が分からないままジェスチャーで船の遭難を知り、大島村樫野地区区長に通報しました。その後、命からがら遭難者が続々と上陸し、大島村民は全村を挙げて生存者の救助介護、殉職者の遺体の捜索引き上げにあたりました。また浴衣などの衣類、台風によって出漁できず備蓄食料も少ない中、卵やサツマイモ、非常用のニワトリまでもを供出したのです。しかし懸命な救護活動にもかかわらずエルトゥールル号の乗組員587人が殉職、生存者わずか69人という歴史上稀に見る海難事故が起こってしまったのです。

実際の場所を見れば、遭難者が上ったであろう断崖の壮絶さや、救難作業がいかに大変であったのかが分かります。

トルコ記念館2階展望台から灯台方面を眺めて
紀伊大島最東端にある慰霊碑の先に見える灯台

事故後、まだまだ通信技術も乏しい明治期にあって日本政府の対応は迅速なものでした。 明治天皇からも日本政府に可能な限りの救助指示があり、遭難者の容態を鑑みながら、すぐさま十分な医療設備の整う神戸に移して万全を期しました。そして生存者の容態の安定を確認した後、同年10月5日、日本海軍の「比叡」「金剛」に分乗させてオスマン帝国首都コンスタンティノープルへと送り届けたのです。

また一方で日本国内では事故がセンセーショナルに報じられ、新聞各社は義捐金を募り、驚くべきことに5000円(今の貨幣価値で10億円との説もあるそう)を超える金額が集まったと言います。中でも福沢諭吉が創刊した「時事新報」は1社で4248円97銭5厘の義捐金を集め、さらに記者が日本海軍の船に生存者と供に乗船し、オスマン朝当局に直接手渡しをするという行動力をみせたそうです。

トルコ記念館2階展望台から見える遭難場所(オレンジ枠内)

この痛ましい悲劇を機に犠牲者の慰霊を通じて串本町とトルコ国との交流が始まりました。

1964年(昭和39)にはトルコ国のヤカケント町と姉妹縁組を結び、1994年(平成6)にはメルシン市との姉妹都市を結びました。トルコ記念館はこれらの出来事を記念して1974年に設立され、串本町では5年おきに追悼式典が開かれ、現在では串本町役場でトルコ人の国際交流員が勤務するほどなのです。

遭難慰霊碑

日本とトルコ国は国家間においても友好的な関係を築いています。

1985年イラン・イラク戦争の中、イラクのサダムフセイン大統領は「今から48時間後に、イランの上空を飛ぶ飛行機を無差別に攻撃する」という声明を突然出しました。イランに住んでいた日本人は慌てて帰国を試みるも飛行機は全て満席で、日本からの救援機も到着できずに途方に暮れていました。

そしてタイムリミットが1時間を切った時、トルコ政府が2機の救援機をイランに派遣し、日本人215人全員が無事に帰国することができました。イランには多くのトルコ人もいましたが、救援機は日本人を優先しトルコの人々は陸路で非難をしたそうです。

当初、日本政府もマスコミも「なぜトルコが?」と思っていましたが、後に駐日トルコ大使となったネジアティ・ウトカン氏は語ります。

「エルトゥールル号の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生の頃、歴史の教科書で学びました。トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号の事を知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。」

同じく駐日トルコ大使となったヤマン・バシュクット氏は後に

「特別機を派遣した理由の1つトルコ人の親日感情でした。その原点となったのは、1890年のエルトゥールル号の海難事故です。」と語りました。

こうして育まれた日本とトルコ国の友好は以降も続きます。

1999年8月17日にトルコ北西部で起きたマグニチュード7.6の地震は、1万7000人あまりが死亡し、コジャエリ県イズミット市を中心に大きな損害をもたらしました。日本からは消防庁と海上保安庁の隊員で国際緊急援助隊救助チームを編成し、民間ボランティアなど多数が支援に入りました。

また2011年3月11日に発生した東日本大震災では22名の救助隊と5名の医療関係者で構成されたトルコの支援チームが来日しました。

このように日本では意外と知られていないことかもしれませんが、日本とトルコ国の間では深くて強い友好が交わされており、そしてそれは現在もなお綿々と受け継がれているのです。

語るものが居なくなれば物語は忘れられてしまいます。現代ではあらゆる事物がテキスト化されて保存されているとはいえども、情報の膨大さの前では意識をしないと目に触れることは無く、それは忘れられてしまうことと同じです。目の前で派手に踊る情報よりも、こうした物語こそ共有していくべきものじゃないか?などと考えつつ串本町を後にする日曜日でした。

10年目のフクシマ

10年前の3月11日もこんな天気だったのかな?なんて思いながら青い空の下、昨年に完全復旧した常磐線で双葉町へ向かいました。今ではすっかり市民の足として働く常磐線ですが、再建・復旧された駅々は無人駅のままでした。

双葉駅に到着。

左側階段上部のレンガ調の建物が旧駅舎部分

新たに増築された部分が機能を果たし、旧駅舎部分は展示などを行うスペースとして残されていますが、時計はあの時のまま。放射線量を表すデジタルメーターが立っています。隣接する施設では放射能線量測定器の貸し出しをしていましたが、来てしまった以上、測ったところで線量が減るわけもないので今回は借りるのを止めました。ロータリー部分は工事が進行中で、もちろんタクシーの停留も無く、今回の目的の一つ「東日本大震災・原子力災害伝承館」をピストン送迎する無料バスに乗りこみました。電車の発着に合わせて駅と「東日本大震災・原子力災害伝承館」を往復する無料バスの他に、無料のレンタル自転車がありますが、歩いてだと少し遠いです。

意外というか国道には多くの車やトラックが行き来をしていて、あちらこちらで工事をする人々の姿を見ることが出来ますが、もちろん町には生活をしている雰囲気はまだありません。多少の補修がされた建物が並ぶ中を海側へとバスが走っていきます。すると、だだっ広い整地された土地に建った真新しい「東日本大震災・原子力災害伝承館」が見えてきました。

右側が東日本大震災・原子力災害伝承館で、左側は双葉町産業交流センター

「東日本大震災・原子力災害伝承館」の入口で9時のオープンを待っていましたが、同じように開場を待っていたのは10人足らず、一方で詰めかけたテレビクルーは100人以上いて、本番前の準備をドカドカと進めていました。

双葉町産業交流センターから見た東日本大震災・原子力災害伝承館
追悼式の準備が進む産業交流センター

ちょっと経緯をまとめてみます。

2013年5月28日までは双葉町全域が「警戒区域」とされ、作業員など許可を得た者以外の出入が禁止されていました。

2013年5月28日に区域再編され、双葉町の海沿い北部のエリア(中野地区、両竹地区、中浜地区)が「避難指示解除準備区域」とされ、自宅への寝泊まりは原則として認めないものの、一時帰宅のほか事業再開や営農・営林の再開などを認めると指定した地域となりました。残りのエリアは「帰還困難区域」として将来にわたって居住が制限されたままです。ちなみに、この段階で双葉駅は長塚地区にあるため「帰還困難区域」。

この決定をうけて中野地区を中心に双葉町の産業復興計画がなされ2017年3月23日に「※双葉町産業交流センター」の設立が決定。平行する形で「※東日本大震災・原子力災害伝承館」の構想もまとめられました。※それぞれ名称は後に決められたもの

2019年2月9日「双葉町産業交流センター」起工式

2019年4月16日「東日本大震災・原子力災害伝承館」起工式

この間に常磐線で利用不可となっていた、夜ノ森駅、大野駅、双葉駅のそれぞれ駅周辺に限り「帰還困難区域」から除外されることが決まり

2020年3月14日に常磐線が全線で運転を再開。コロナの影響があったりで延期もありつつ

2020年9月20日「東日本大震災・原子力災害伝承館」開館

2020年10月1日双葉町産業交流センター」開所

と、こんな感じです。

この経緯をみるに、優先的に除染なんかもしたりして、政治的計画性をもって展開されたであろうことは想像に難しくありません。特に国が約53億円をかけて建てられ、あちこちから批判が渦巻く「東日本大震災・原子力災害伝承館」ですが、入館料は大人1名600円です。個人的な感想としては「地震も原発もまとめて天災で、こんなひどいことになりました」という客観姿勢がうかがえる内容で、そもそも”伝承”をうたう館内は撮影禁止という”入場料払ったら見せてあげるけど人には見せないでね”という建付けはいかがなものか?と思いました。映像などの権利問題があるという話なのかもしれないんですけど、権利主張されるようなものを集めるのは前提姿勢として変だなと感じざるをえません。

なにより双葉町民のみなさんが安心して戻ってこれるのはまだまだ先の話だという事実は依然とあって、今後はそちら側の復興を優先して進められることを願います。

双葉町産業交流センター内「せんだん亭」の浪江焼きそば

その後、常磐線で浪江駅までいきました。

浪江駅前ロータリー

浪江駅は先だって2017年4月1日に営業を再開しましたが無人駅のまま、閉じられたままの”みどりの窓口”が物寂しい感じ。

駅前ロータリーには住民の方と思われる車が往来していますがタクシーはありません。駅前には様々なお店、飲み屋街などもあったようです。多くのお店には閉店・移転を案内する張り紙があり、コロナ禍の追い打ちもあっての決断である内容が記されていました。

町を散策しながら「道の駅なみえ」に向かいます。

道の駅なみえ入口
かなり広い「道の駅なみえ」。奥の棟は3/20グランドオープン

浪江町はホテルなんかも営業してますし住民の生活感もあります。もともと浪江町は規模としても大きく、B1グランプリでゴールドグランプリ獲得の「なみえ焼きそば」や銘酒、民芸など色々な産業がありました。DASH村があったことでも有名ですね。

2019年3月31日に浪江町一部の全域避難指示が解除され、現在も山間部を中心に多くの地域が「帰還困難地域」のままとなっていますが、すでに避難解除区域には1000人以上の住民が戻ってきているそうです。

その中でも復興のシンボルとして始まったのが「道の駅なみえ」です。2020年8月のスタートから徐々に営業店舗も増え、2021年3月20にはあの「無印良品」なども参入してグランドオープンをするそうです。

とはいえ現段階でも多くのお土産ものが並べられ、飲食スペースでも様々なメニューが準備されています。コロナ対策もバッチリされていて、何を買うか、何を食べるか悩みます。

「道の駅なみえ」フードスペースの自魚の海鮮ちらし

この施設だけでなく、周辺には飲食店なども通常どおりに営業をしており、現場作業をされる人々だけでなく、観光としての受け入れも十分に整ってきているんだなと感じました。そしてお土産を買いこみ、しばらく町をうろつき帰路につきました。

今回もまた、日帰りでチラッと立ち寄っただけで何が分かったわけでは無いですが、画面を通して知らされる情報では得られない実際の姿を肌で感じることはできました。以前に訪れた各所を振り返っても、ほとんどの地域で復興はまだまだ始まったばかりだという印象で、間違っても仕上げの段階にあるはずも無く、特に今回の双葉町や、ひいては大熊町などは始まってもいないと言っていいくらいだということ。10年も経ったのだからそれなりに変わっているだろうと思いがちな情報だけでは見えてこない現実が感じられて良かったなと思いました。

焼きそばも海鮮ちらしも美味しかったな。