陸前高田を再訪してきました。

あの日から11回目の3月11日の朝。一ノ関から陸前高田を目指しました。

JR一ノ関駅前(西口)

内陸部に位置する一ノ関から陸前高田を目指すには、太平洋側の気仙沼を経由して北上する必要があります。

乗り継ぎのタイミングもありますが片道2時間ちょっと、電車またはバスといった交通機関があり、電車は大船渡線で約2時間ごとに1本と限られており、バスはさらに本数が少ないです。

電車で行くにしてもバスにしても一旦、気仙沼で下車してBRT(バス高速輸送システム)に乗り換えて陸前高田を目指すことになります。

BRT(大船渡線)のバス

かつて気仙沼から陸前高田を結ぶ大船渡線は一般的な電車でしたが、2011年に鉄道が不通になったことで応急でバス運行が始まり、それまでの利用者減少もあって鉄道での再開は断念されたそうです。

そんなこんなで気仙沼駅からBRTに揺られて30分ほど。「奇跡の一本松駅」に到着しました。

陸前高田「奇跡の一本松」

前回、訪れた時と比べると柵なども設けられ綺麗になっていました。一本松の保存にはいまだ賛否両論があるそうですが、やはり県外から見える象徴的な震災遺構の一つとして、果たしている役割は非常に大きいなあと改めて感じました。

加えて「東日本大震災津波伝承館~いわてTSUNAMIメモリアル」が新たに出来ていて「道の駅高田松原」が併設されていました。「奇跡の一本松駅」の目の前にあります。

東日本大震災津波伝承館

「東日本大震災津波伝承館」は2019年9月22日に開館し、主に岩手県の三陸側が歴史的に見舞われてきた津波、東日本大震災の被災状況や復興の様子を写真や映像、被災物等の展示でみせる県の施設です。

「東日本大震災津波伝承館」の案内
三陸地方の津波の歴史
被災した消防車

昨年に訪れた福島県双葉町の「東日本大震災・原子力災害伝承館」ほどの規模ではありませんが、充分な情報量をコンパクトにまとめられており、構えずに見れる距離感の近さがあります。何より東日本大震災での被災者さんが記された当時の書き残しには涙を止めておくことができない胸が詰まる気持ちになりました。また、おそらく地元の人であろうスタッフの方もフレンドリーでとても親しみやすさを感じる施設です。

昨年の双葉町を訪れた際の記録です。↓

「東日本大震災津波伝承館」から防潮堤への眺め

「東日本大震災津波伝承館」の周りはとても綺麗に整備されており、新たに設けられた防潮堤へと続く階段を上ると三陸の綺麗な海が望めます。

綺麗に整備された防潮堤の上

この日は多くの方々が追悼に訪れていました。

多くの方々の献花

「東日本大震災津波伝承館」と「道の駅高田松原」、「旧道の駅高田松原タピック45(震災遺構)」、防潮堤、奇跡の一本松を含む歩道区画は「高田松原津波復興祈念公園」として以前とは比べ物にならないほど歩きやすく綺麗に整備され、ちょっとした憩いの場になっており、週末には非常に多くの観光客が訪れているそうです。

奇跡の一本松と陸前高田ユースホステル(震災遺構)
旧道の駅高田松原タピック45(震災遺構)

また以前は「奇跡の一本松駅」近くに「一本松茶屋 たがだ屋」さんという地元のお土産と飲食を営む急誂えのお店があったのですが、2019年の大雨で浸水したことによって閉店し、入れ違いで開設された「道の駅高田松原」内に移られていました。

陸前高田市街地へ向かいます。

「高田松原津波復興祈念公園」から徒歩約10分くらいで陸前高田市街地に着きます。

こちらも以前はスーパーマーケットやカジュアル衣料、書籍、飲食店、図書館等が一塊となった商業モール「abasseTAKATA(あばっせたかた)」だけがポツンとあっただでした。現在では周辺に多くの店舗が集まり、公園広場などもでき、新たに整備された市民会館と中央公民館の複合施設「陸前高田市民文化会館~奇跡の一本松ホール」も隣接しています。3.11追悼式典はこちらで行われました。

追悼式が行われた「陸前高田市民文化会館~奇跡の一本松ホール」
「abasseTAKATA(あばっせたかた)」
新たに出来ていた商業店舗群

せっかくなので今回は新たに出来た飲食店の一つ「鶴亀鮨」さんで昼食をいただきました。

たまたまなのですが、先日NHKでこちらのお店の大将が出ていらして、なんとなく「行きたいなあ」と思っていたのです。

「鶴亀鮨」さん

「鶴亀鮨」さんは昔から地元で人気のお店だったそうです。震災後は臨時の店舗でいち早く営業を再開し、新たに出来た店舗街に思い切ってお店を構えたそうです。

鶴亀鮨さんのFacebook

華やかな海鮮丼(「鶴亀鮨」さん)

しかしながら「鶴亀鮨」さんに限らず店舗街には思うように観光客が集まってこないといいます。奇跡の一本松には大勢が訪れても市街地までは流れて来ないというのです。

「鶴亀鮨」名物の”なみだ巻(ワサビ巻)”

やはり奇跡の一本松周辺で”陸前高田に来た”いう一通りの要件が満たされてしまうことで、少し移動して市街地まで行くとはなりづらい、心理的な壁があるのかもしれないなと感じました。しかし実際に来てみれば飲食店のバリエーションは豊富ですし、食べ歩きの満足度は抜群に高いので非常にもったいないなあと思います。あと簡易的でよいので宿泊施設があれば夜も盛り上がるのかな?と思いました。もちろん震災を経験して後の宿泊業というのも同様に営みづらいのかもしれませんが。

またこの日、「abasseTAKATA(あばっせたかた)」駐車場の海側に東日本大震災の犠牲者を悼む「刻銘碑」が完成公開されました。

新たに整備された「東日本大震災追悼施設」

以前は中心にある「慰霊碑」だけがあったのですが、市民からの強い要望で「刻銘碑」が慰霊碑を囲むようにして整備されました。大震災による死者・行方不明者のうち遺族から希望があった1709人のお名前が刻まれています。高台から海を臨むかたちで設置されており、見晴らしはとても良いのですが、そこには未だ整地されたままの土地が広がっている状態でした。

手を合わせ、しばらく晴れ渡った景色を眺めてから、再びBRTで帰路につきました。

陸前高田駅(BRT)

今回、陸前高田を再訪して思ったことは、11年を経てもいまだに復興への歩みは始まったばかりなのだということです。確かに前回に比べれば綺麗に整備されてはいますし、新しい施設や建物も増えています。しかしながら計画先行で進められ、中身が追い付けていないような開きを感じてしまいました。行政とは予算を組んで箱を用意するもので、それ以上でも以下でもないとは思うのですが、なんというか小綺麗な仕上がりであっても色気が無いといった感触があるのです。道は作るが動機を用意していないので、せっかくの魅力的なコンテンツがお行儀よく静かに座っているだけの”もったいなさ”を感じました。これは陸前高田以外でも同様に感じる肌触りなので、もしかすると高望みなのかもしれませんが、特に今、多少の賛否がある方が興味を引く時代でもあるので、毀誉褒貶を恐れず”気になるコンテンツ”を用意して欲しいなと思います。例えばバックパッカー向けに仮設住宅を模した安宿なんかがあったら面白がる人が出てくるんじゃないかな?とか不謹慎ながら思い浮かびました。失礼。

陸前高田。またいつか訪ねたいと思います。

トルコ記念館(串本町)へ行ってきました

雨のたびに秋らしくなる10月10日、かつては固定されていた「体育の日」にあたります。

「体育の日」は1964年の東京オリンピック開会式を記念し、1966年から10月10日が国民の祝日となったのですが、2000年からは10月の第2月曜へと異動が命じられ、今年にいたっては10月からも追い出されてしまった”都合の良い祝日”。「なんだか可哀想だな、体育の日」などと思いをめぐらせてパンダ柄の電車に揺られていたら和歌山県のJR串本駅に到着しました。

和歌山県「JR串本駅」

良い天気です。そういえば旧「体育の日」は晴れの特異日でも有名でしたね。

JR串本駅から「トルコ記念館」へ向かいます。

日本とトルコ国との友好の証である「トルコ記念館」は本州最南端にある紀伊大島の東端にあります。タクシーだと20分ほど。 数は少ないのですが駅からはコミュニティバスなども出ています。停車場が多いので40~50分は覚悟しましょう。

なぜこんな遠く離れた本州の南端に「トルコ記念館」があるかというと日本とトルコ国との友好の歴史が始まった場所であるからです。

トルコ記念館

1890年(明治23)9月16日夜「エルトゥールル号遭難事件」が起きました。

当時、トルコ国の前身、オスマン帝国は1878年にロシアとの戦争に完敗し、西欧諸国の中で確固たる地位を築くのに躍起になっていました。一方で日本も明治維新をへて国際社会にデビューを果たしその地位を高めようとしていたのです。状況が近しい両国は接近し、1887年に日本から小松宮彰仁親王夫妻がオスマン帝国へ訪問したことに応えるかたちで軍艦エルトゥールル号が日本へ派遣されました。

明治天皇への謁見を終えて帰路に就いたエルトゥールル号は、日本の制止を振り切って台風の中に出航し和歌山県串本町沖で岩礁に激突、破艦し22時半ごろ沈没しました。

紀伊大島の東端には樫野埼灯台があります。1870年に初点灯した日本最初の石造灯台で、現存する日本最初の回転式閃光灯台なのですが、事故当時、灯台職員の乃美権之丞(のみごんのじょう)が宿直中に最初の遭難者が血まみれで転がり込んできました。言葉が分からないままジェスチャーで船の遭難を知り、大島村樫野地区区長に通報しました。その後、命からがら遭難者が続々と上陸し、大島村民は全村を挙げて生存者の救助介護、殉職者の遺体の捜索引き上げにあたりました。また浴衣などの衣類、台風によって出漁できず備蓄食料も少ない中、卵やサツマイモ、非常用のニワトリまでもを供出したのです。しかし懸命な救護活動にもかかわらずエルトゥールル号の乗組員587人が殉職、生存者わずか69人という歴史上稀に見る海難事故が起こってしまったのです。

実際の場所を見れば、遭難者が上ったであろう断崖の壮絶さや、救難作業がいかに大変であったのかが分かります。

トルコ記念館2階展望台から灯台方面を眺めて
紀伊大島最東端にある慰霊碑の先に見える灯台

事故後、まだまだ通信技術も乏しい明治期にあって日本政府の対応は迅速なものでした。 明治天皇からも日本政府に可能な限りの救助をするよう指示があり、遭難者の容態を鑑みながら、すぐさま医療設備の整う神戸に移して万全を期しました。そして生存者の容態の安定を確認した後、同年10月5日、日本海軍の「比叡」「金剛」に分乗させてオスマン帝国首都コンスタンティノープルへと送り届けたのです。

一方、日本国内では事故がセンセーショナルに報じられ、新聞各社は義捐金を募り、驚くべきことに5000円(今の貨幣価値で10億円との説もあるそう)を超える金額が集まったと言います。中でも福沢諭吉が創刊した「時事新報」は1社で4248円97銭5厘の義捐金を集め、さらに記者が日本海軍の船に生存者と供に乗船し、オスマン朝当局に直接手渡しをするという行動力をみせたそうです。

トルコ記念館2階展望台から見える遭難場所(オレンジ枠内)

この痛ましい悲劇を機に犠牲者の慰霊を通じて串本町とトルコ国との交流が始まりました。

1964年(昭和39)にはトルコ国のヤカケント町と姉妹縁組を結び、1994年(平成6)にはメルシン市との姉妹都市を結びました。トルコ記念館はこれらの出来事を記念して1974年に設立され、串本町では5年おきに追悼式典が開かれ、現在では串本町役場でトルコ人の国際交流員が勤務するほどなのです。

遭難慰霊碑

日本とトルコ国は国家間においても友好的な関係を築いていきます。

1985年イラン・イラク戦争の中、イラクのサダムフセイン大統領は「今から48時間後に、イランの上空を飛ぶ飛行機を無差別に攻撃する」という声明を突然出しました。イランに住んでいた日本人は慌てて帰国を試みるも飛行機は全て満席で、日本からの救援機も到着できずに途方に暮れていました。

そしてタイムリミットが1時間を切った時、トルコ政府が2機の救援機をイランに派遣し、日本人215人全員が無事に帰国することができました。イランには多くのトルコ人もいましたが、救援機は日本人を優先しトルコの人々は陸路で非難をしたそうです。

当初、日本政府もマスコミも「なぜトルコが?」と思っていましたが、後に駐日トルコ大使となったネジアティ・ウトカン氏は語ります。

「エルトゥールル号の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生の頃、歴史の教科書で学びました。トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号の事を知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。」

同じく駐日トルコ大使となったヤマン・バシュクット氏は後に

「特別機を派遣した理由の1つトルコ人の親日感情でした。その原点となったのは、1890年のエルトゥールル号の海難事故です。」と語りました。

こうして育まれた日本とトルコ国の友好は以降も続きます。

1999年8月17日にトルコ北西部で起きたマグニチュード7.6の地震は、1万7000人あまりが死亡し、コジャエリ県イズミット市を中心に大きな損害をもたらしました。日本からは消防庁と海上保安庁の隊員で国際緊急援助隊救助チームを編成し、民間ボランティアなど多数が支援に入りました。

また2011年3月11日に発生した東日本大震災では22名の救助隊と5名の医療関係者で構成されたトルコの支援チームが来日しました。

このように日本では意外と知られていないことかもしれませんが、日本とトルコ国の間では深くて強い友好が交わされており、そしてそれは現在もなお綿々と受け継がれているのです。

語るものが居なくなれば物語は忘れられてしまいます。現代ではあらゆる事物がテキスト化されて保存されているとはいえども、情報の膨大さの前では意識をしないと目に触れることは無く、それは忘れられてしまうことと同じです。目の前で派手に踊る情報よりも、こうした物語こそ共有していくべきものじゃないか?などと考えつつ串本町を後にする日曜日でした。