映画「海辺の映画館 キネマの玉手箱」大林宣彦監督

海辺の映画館キネマの玉手箱
映画「海辺の映画館 キネマの玉手箱」

空が高くなってきた2020年、秋の日。

そこで観ないといけない気がして、休日を利用して尾道にいきました。

シネマ尾道
「シネマ尾道」

映画『海辺の映画館 キネマの玉手箱』は、大林宣彦監督が癌告知を受けながらもメガホンを取り続け、映画監督人生の最後を飾ることとなった作品です。

『海辺の映画館 キネマの玉手箱』公式HP

残念ながら大林監督は、2020年4月10日に闘病生活を終え、安らかな眠りにつかれましたが、奇しくもその日は本作の一般公開予定日でもありました。いわゆるコロナ禍によって公開は延期されてしまうのですが、世の中が少し落ち着きを取り戻した同年7月31日、無事に封が切られた経緯があります。

日本の敗戦を機に、本当の自由を感じてしまった愛国少年”大林宣彦”は、青年期には映画の自主制作に熱中し、CMディレクターを経て商業映画の世界へ入ることになります。時はバブル真っただ中の日本。最新映像技術を大胆に取り入れる作風で、新人アイドルや新人女優を乱暴に起用し、実験的で破りな新しい映画としてブームとなったそうです。後発の観客として言うならば、大きな資本が担ぐ神輿の上で、ルールに縛られない自由な発想を大胆に具現化してきた監督だったのだろうと想像します。

正直にいって私は、いわゆる尾道三部作に代表される「大林映画」のファンではありませんでした。比較的、映画は観る方だとは思いますが、上手に時代の波を乗りこなす人とは距離をとってしまう癖があるので、「常に奇天烈な映像を見せてくるマッチョな人」くらいにラベリングをして、ゆっくりと後をつけてきたのです。

ところが2000年代に入ってから、肌触りの違った作品が登場しはじめます。『転校生』をセルフリメイクされ、一区切りをつけられたのかは分かりませんが、その頃からの作品からは、スクリーンに登場する人物たちのさらに奥から語りかけてくる大林監督の声がだんだん大きく聞こえてくるようになったのです。そしてとうとう『その日のまえに』で心を射抜かれてしまいます。以降はずっと大林監督の方を向いて次回作を心待ちにしてきました。惚れてしまったのですね。

一方、この頃の作品には反戦のメッセージが強く織り込まれるようになります。ただ、確かにモチーフとしての戦争はそこにあるのですが、どちらかというと体制から強要される同調圧力によって、人間の思考が麻痺していくことへの警鐘といった側面の方が強く、かつての愛国少年が叫ぶ自由礼賛なのではないか?と感じます。もちろん戦争への怨嗟も含まれています。とはいえ、そういった時代がかった表層だけで作品を判断したりせず、遠慮なくアクセルを踏みはじめた”とんでもない”映像表現の幕開けでもあるこれらの作品群を、是非とも大画面で浴びて欲しいなと思います。間違いなく大林映画の最高到達点だと思うからです。

で、『海辺の映画館 キネマの玉手箱』です。

初期の作品から一貫されるファンタジックでノスタルジックな空気を保ちながら、物語に単純な命題を与えたことでテンポは最速を極めます。人が認知できるスピードを無視して細切りにされた映像と台詞が、前後の関係なく押し寄せてくるその様は圧巻の一言です。極彩色の剛腕でねじ伏せてくる大林監督にブンブン振り回されるジェットコースター活劇になっています。

最初から最後まで何を見せられているのか分からないけれど、ずっとワクワクが止まらない軽快で明るい娯楽作品です。

変わらず反戦といったテーマはあるのですが、どちらかというと戦争は舞台として描かれるにとどまり、それ以上に大林監督の映画への愛、そして後進の人々へのユーモアある箴言が凝縮されているなと感じました。

”自由であれ”

先頭を走る監督が、後ろの仲間にそう言いっている気がしました。

なぜ、大林監督はこの映画を作ったのか?ご自身でも言葉にされてきましたが、今まさに日本には、戦争前夜と見まがう”あの”空気が流れていると言うのです。望もうが望まなかろうが、過去の歴史を見れば、いづれまた訪れる”戦争”という理不尽な暴力に、抵抗できる唯一の方法は”自由な発想”であると説かれているように感じます。

世界がデジタルに浸食され、誰もが膨大な情報に翻弄されながら生きているこの時代。許容量を超える情報は人の思考を停止させます。人間は思考の停止をとても甘く感じてしまうため、簡単に目的と結果を入れ替えてしまい、本意ではない与えられた理由を本心だと錯覚してしまいます。そして停止した思考の隙間に影が忍び込みます。

「そんなのは嫌だ!」と思い、ついつい本屋さんに置いてある答えらしきものに手が伸びてしまう人もいるんじゃないでしょうか。

誰かに用意された型に収まることは楽ですし、型に収まってしまえば、その型を破ることは恐怖にすら感じてしまうのが人間ですから。

とはいえ本当に、今ある枠を壊すには大変な勇気が要ります。

自分は誰かがくれた殻を勝手に世界だと感じてはいないか?

自分のやっていることは本当に自分がやりたいことなのか?

自分は正気か?

このような命題は、容易に人間の自我を不安定にしてしまう沼です。だからこそ、自分の中にある正気に素直になって、自由な発想で世界をシッカリと観ることが殻を破ることに繋がるんだよ。

戦争だけでなく、映画にも、仕事にも、恋愛にだって自由にぶつかれば良いんじゃない?

まだ若いんだから。

そんな声が聞こえた気がします。

次元が捻じ曲げられたステンドグラスのような約3時間の冒険映画を観終え、尾道シネマを後にしました。秋の陽が照らすしまなみ海道を眺めながら「これはもう、やるしかないな」と、新たな気持ちで帰路についた私でした。

尾道しまなみ海道

宮城県の女川町へ行ってきました

いつもそうなのですが前準備はほとんどせずに訪れるスタイルです。

3/11の3日前、3/8日曜日の朝6時に石巻駅へ到着したのですが、石巻駅から終点の女川駅へと向かうJR石巻線の始発は7時。何をすることもできない時間をつぶして待つことにしました。

JR石巻駅

「石ノ森萬画館」を擁する石巻市は、町中が多くの石ノ森章太郎キャラクターに彩られています。「石ノ森萬画館」は青春時代の思い出の多くを石巻市に持つ、宮城県出身の漫画家”石ノ森章太郎”さんが市とタッグを組んで設立されたマンガミュージアムです。ちょっとビックリするくらい多くのキャラクターがあちらこちらにいますね。

石ノ森キャラクター達

結局なんやかんや路線トラブルもあって、始発電車は8時10分に出発しました。

石巻→女川までは約25分

初めて訪れた女川町の第一印象は「綺麗な町だなあ」でした。まるでリゾート地かと思うような綺麗さで町がデザインされており、駅員さんはいませんが温泉の併設されたオシャレな駅舎です。

駅併設の女川温泉「ゆぽっぽ」

駅を出れば綺麗に舗装された道が、まっすぐ港へ続いており、両サイドはウッド調でデザインされた「シーパルピア女川」という商店街になっています。

女川駅から港へと続く道

商店街を抜けて信号を渡ると、港へ向かう道の途中に、ひっくり返った”旧女川交番”があります。こんな2階建て鉄筋コンクリートを転がしてしまう巨大なエネルギーに恐ろしさを感じます。

震災遺構「旧女川交番」

旧女川交番を取り囲むようにスロープが整備され、スロープの壁にはかつての女川町から現在までの歴史が時系列にそって写真付きパネルで解説がされています。ちょうど数日前に公開されたばかりだったこともあり、この日も朝から地元の方々が多く訪れて「懐かしいね」「大変だった」と写真を指しながら語られていました。タイミング的にテレビカメラを抱えた人もパラパラといましたね。

商店街に戻ると雨が降り始めました。ほとんどのお店が開くまでには時間があったので、雨宿りがてらコーヒーを飲んで「本当に綺麗に整備されてるなあ」と通りを眺めていました。

Mother Port Coffee 女川店

10時すぎ、徐々にお店が開店をはじめます。「やっぱり港町なら魚介だろ」ということで朝昼兼用ごはんを食べることにしました。

「お魚いちば おかせい 女川本店」

獲れたての魚介類ががこれでもか!と盛られた丼は壮観で、どれも新鮮そのものといった色とりどりのネタが盛りつけられています。バツグンに美味しかったです!!

「特選女川丼」

こちらの「お魚いちば おかせい 女川本店」さんは港を望む見晴らしのよい立地で、魚介類を直販するお店も併設されていて、あれこれ目移りしながらお土産を買い込みました。

外に出ると雨は本降りに変わっていました。新型コロナの影響があるのか、まだ時間が早いからなのか、雨だからなのか、お昼を回ってもお客さんはまばらにしかいませんでしたねえ。

雨が降る「シーパルピア女川」

あれから9年が経った女川町。

被災率日本一という悲しい数字で称された町の面影はほとんど見当たらず驚きました。比べるものではありませんが、町の規模としてなのか仙台という大都市が近いからなのか、これまで回ってきた市街地よりも圧倒的に復興・再生が進んでいるような気がしました。お金をかけて綺麗に整備すれば復興完了なのかといった意見もあるでしょうし、住民のみなさんの気持ちがいまだ癒えてなどいないのは当り前なのですが、悲しい傷跡がむき出しで横たわっているようなことは無く、パッと見では再生の木が育っている感じがしました。よく見れば真新しい墓石が並んでいたり、不自然さを感じる部分もまだあります。そしてそういった部分もいずれ自然に馴染んでいくのでしょうが、そこで確かに起こった出来事が無かったことになるわけはなく、よそ者であるからこそ忘れないようにしないとなと思いました。

もちろん帰りには女川温泉でゆっくり温まりました。