あの!「かなまら祭り」に行ってきました。

桜の盛りとタイミングもバッチリです。

※念のためR18で始めます。

ここ数年、特にネットなどで話題となっていて海外でも注目される日本のお祭りが「かなまら祭り」なのですが、今年初めて参加してきましたよというお話です。

海外では”うたまろフェスティバル(UtamaroFestival)”という呼び名で広く知られていまして、欧米・アジア・アフリカなどをルーツとする様々な外国の方が大量に訪れることが特徴的なお祭りです。2016年の来場者が3万人という根拠が乏しい数字がありますが、おそらく今年はそれ以上の5万人近い人がいたように思います。そして内訳として外国の方が半数以上、男女比も半々という多様性も目を引くお祭りです。

浦安の舞(巫女舞)

「金山神社」は川崎市川崎区にある若宮八幡宮境内にあり、金山比古神(かなやまひこのかみ)と金山比売神(かなやまひめのかみ)の二柱が祀られています。

「金山(かなやま)」の読みと男根を意味する「金マラ(かなまら)」の音が似ていたり、両柱の由来が男女の性交を連想させたり鍛冶に関連することが、このお祭りの背景とされてきたようです。世界的にみても男女の性交が子を産むことへの連想もあって、農耕文化の豊穣と結びつきやすいことは、古来から了承されてきたイメージでもあるように、濃度の差はあれ、日本全国のお祭りにも同様のイメージが内包されていたりするもので、そういったイメージを遠ざけてきた近代が、この”かなまら祭り”を際立たせているように思います。

また「奇祭」というくくりでネットに広がっている”かなまら祭り”ですが、どこか祭り本来の”晴れ”が爆発している風でもあります。例えば京都の葵祭のような伝統を体現することに重きをおくというより、むしろコミケのような凝縮したエネルギーが人を引き付けている感じに近いとも思いました。ですから出店も独特です。

Tシャツやカバンといったグッズ販売
定番の飴
こんなキャンドルまで

太古から世界中に”性神”を奉る風習はあるのですが、最近は正体の見えない”良きこと”を盾に蓋をされがちなタイプのお祭りではあると思います。事実、警察との交渉も頻繁にあるそうですし、そういった世界的風潮の息抜きとしても注目が集まっているのではないかなと思いました。だからこそ、わざわざ海外から訪れているわけですし、インスタ映えという部分もあるとは思いますが、みんながニコニコしているのが印象的でした。

そして祭りの本番、神輿の巡行へ・・・

エリザベス神輿を担ぐオネエサマ達
かなまら舟神輿

これらに最も歴史のある”かなまら大神輿”を加えた3基が境内を出て町を巡行すると祭りはクライマックスを迎えます。

この圧倒的なビジュアルで、毎年この時期にインターネットをザワつかせている「かなまら祭り」ですが、実は歴史がそれほど無かったりします。

江戸時代に川崎宿の飯盛女達のあいだで、性病除けや商売繁盛を祈願して始まった「地べた祭」を発端として細々と続いていたお祭りが、70年代に民俗学的見地から注目されたり、地域の町おこし的なイベント化から現在の形が出来上がったそうです。

しかし、よくよく考えれば本来のお祭りってそういうスタートから脈々と受け継がれているわけですし、それが伝統の護持を是とするのか、イベントやフェスのような”晴れの場”として変遷を経ていくのかは、それぞれ主催がジャッジすればいいのではないかなと思ったりしました。

天気も良くて本当に楽しくて笑顔あふれる時間でした。来年もタイミングを合わせて是非とも来たいなと思った次第です。

映画「バーニング(劇場版)」

「バーニング(劇場版)」

8年待ちました。

イ・チャンドン監督は非常に寡作で、キャリア20年を越えて6本の映画しか撮っていません。 で、前作から8年が過ぎて公開されたのが本作です。「万引き家族」がパルム・ドールに輝いた第71回カンヌ国際映画祭では、批評家ジャッジで過去最高得点の4.8を出し、下馬評は高かったものの無冠に終わってしまいました。さらに日本では原作が村上春樹の短編小説「納屋を焼く」ということもあって注目が集った作品です。 原作から骨組みを拝借して大胆に再解釈し、舞台を現代の韓国社会に置きかえて、より登場人物と距離を近くした感じの仕上がりになっています。

先に言っておきますとイ・チャンドン映画のファンなので、そのあたりの偏向があることをご容赦ください。それを踏まえて言いますが、この映画やっぱり”傑作”です。韓国に限らず世界的にも巨匠として誉れの高いイ・チャンドン監督。その作風は観た人の心にドスンと”重い一発”を打ち込むものなので、デートで観るのは避けた方がいいかもですねが。

物語は3人の若い男女が中心に描かれます。小説家志望と言いながらまだ1作も書けずにいるイ・ジョンスは、暴力事件で逮捕された父親にかわって北朝鮮との国境近くの田舎で家畜の世話をしている青年。ある日、街に出たジョンスは”幼なじみだと語る”女性シン・ヘミと会い、近々アフリカ旅行にいくヘミの留守中に猫の世話を頼まれます。アフリカ帰りのヘミを迎えにいくジョンス。しかし彼女の隣には旅先で知り合ったベンと名乗る男がいました。都会的で裕福なベンに気負ってしまうジョンスは、距離を縮めるベンとヘミの間に入れません。ところがある時、高級車に乗ったベンとヘミがジョンスの家を訪れます。そこでベンはジョンスに言います。自分には”古くなったビニールハウスを燃やす”趣味があり、近々また燃やすだろうと。この唐突な告白に異様さを感じるジョンス。そしてその日を境にヘミの姿が忽然と消えてしまった・・・

この作品は現代の韓国社会だけでなく、今、世界中の人々が抱えている”鬱屈した思い”を描いているなと思いました。ものごとを数値化して計ることは簡単ですが、現実はそんな単純な物差しでは測れない複雑なものです。しかし人間は数値化した方が理解しやすい生き物。残念ながら、情報化が進む現実の中では物差しが無数に増殖し、それらの目盛りを上げようとして疲弊する人が量産されています。目盛りを上げること”だけ”が幸せだとする現実に迫られている多くの人々を代弁しているような作品だと思いました。

劇中でヘミは”みかんを食べる”パントマムをし「”無い”と思うことを忘れることが、”有る”ように見える演技のコツだ」 と言います。都会に出て顔を整形し、アフリカ旅行をする。そんなインスタ映えともとれる”目盛り上げ”に注力するヘミは、未来に”絶望は無い”と思うことで”希望がある”と信じているよう。

ジョンスは、まるで自分が何も”持っていない”ように規定してくる社会の無数の物差しに囲まれ、自分が何者なのか見失いそうになりながら日常に時間を費やしているばかりで、自分は小説として何を描けばいいのか分からずにいます。

ベンは全てを手に入れような富裕層だが「涙を流したことがないから悲しいという気持ちがわからない」という、まるで”有る”ことは無くさないとわからないといった風のリアリストで、全ての目盛りを高く持つ者です。

三者三様。あふれる情報社会の中で”自分”というものを確かめようとするのですが、現実社会では目盛りの高い者がイニシアティブを持つため、ベンの意図によってヘミやジョンスは振り回されてしまうのです。

ジョンスの家の庭で3人がくつろぐシーンは特別に美しかったですね。酒を飲みながらヘミが踊り日が暮れる逢魔の時。それを最後に姿を消したヘミを必死に探すジョンス。ベンはヘミの失踪について知らないと言い、一方すでにビニールハウスは燃やしたと言う。ジョンスは自分の中に”有る”大切なもの、あの日ヘミの部屋で見た光を掴もうとするようにヘミの痕跡を追い求めます。しかし欠片のようなものがあるばかりで、誰もヘミが”有る”ことに目を向けようとしない。ジョンスが焦燥感にかられ、初めて自分の意思だけを理由にヘミを探すこのシーンからグングンと物語に引き込まれてしまいました。

「自分が何者かは自分が決めるもので、他人に決められたくない」

そんな想いは誰にもあると思うのですが、一人の人間の存在など有っても無くても同じだと流れ続ける”社会”という得体の知れないものに切り込むジョンスの姿が、見る側の心とリンクしてきます。

誰かが決めた物差しが無数に重なり、ホログラムのように化け物の像を結んだものが”社会”であって、目盛りが高くなければ存在しないのも同然と迫ってくる社会への反抗。最後に意思を持ったジョンスは、そんな社会の目盛りを一足飛びに越えて自分の手でイニシアティブを握る手段に出ます。

善悪は社会で決めるものなので、ジョンスがとった手段は世間が認められるものではありません。しかしそうしないと消えてしまう、消されてしまう大切なものを、自分が”有る”と信じるために選んだ手段だったのではないかなと思いました。非常に切なくて残酷で、でも信じたくなる作品だなと思いました。

追記ですが、本作のタイトルに「劇場版」と付くのは、村上春樹を原作とした映像をアジアの監督たちが撮るという企画がありまして、それをNHKが出資したことから、先行して短縮版がテレビ放映されたからだそうです。