戦没画学生慰霊美術館「無言館」に行ってきました

8月ということもあり、念願であった戦没画学生慰霊美術館「無言館」を訪れました。

無言館とは、その冠する名の通り画学を志しながら先の大戦にて亡くなられた学生等が、生前に遺した作品を展示保全する私設の美術館です。

無言館は、長野県上田市の古安曽(こあそ)にあります。

上田市は、映画「サマーウォーズ」の舞台であったり、真田氏のお膝元であったことが有名ですね。

「無言館」長野県上田市古安曽山王山3462

まずは上田駅へ向かいます。

「上田駅」お城口

上田駅はJR東日本の北陸新幹線の停車駅ですが、在来線であればJR東日本から第3セクターとして移管された、しなの鉄道の停車駅となります。しなの鉄道は今のところ交通系ICカード非対応なのでご注意ください。

上田駅からは、連絡する別府温泉方面へ向かう上田電鉄別所線へ乗り換えます。

上田駅の「温泉口」側から連絡する上田電鉄の改札口

上田電鉄に乗り換えてから、車両に揺られながら「下之郷駅」で下車します。

「下之郷駅」駅舎

無言館の最寄り駅は一駅先の「塩田町駅」となりますが、塩田町駅から2.5kmも距離があるため、4月~11月の間なら期間限定で運行される下之郷駅から出発するシャトルバスを利用するのが便利です。

「無言館」へのシャトルバス

シャトルバスとは言うものの、下之郷駅と無言館を直通で往復するバスではありません。正式名称は「信州上田レイライン」といい、下之郷駅と別所温泉を結ぶ路線バスで、その途中に「無言館バス停」があるといった具合です。

※シャトルバスは運行期間が決まっており、さらに1日往復5便と本数は多くなく、しかも以前は塩田町駅からの発車であったことから、変更があるかもしれませんので、実際に利用する場合は最新の情報をチェックされることを強くオススメします。→上田バスオンライン

「無言館」バス停に到着しました。

「無言館」バス停

バス停は山王山公園の脇にあります。

山王山公園

ここからは公園の奥へと続く道に沿って、やや上り坂の道を歩き無言館へ向かいます。

「無言館」へ続く道中の表示板

「無言館」へ向かう道の途中には、後から建てられた第二展示館「傷ついた画布のドーム」があります。が、まずは奥の本館の方へと足を向けます。

「無言館」入口

一般的な美術館と同様に、無言館にも館内撮影禁止等ありますので宜しくお願いします。

マナー良く鑑賞しましょう

館内の雰囲気や作品の一部を見てみたい人はこちらの公式ホームページを見てみて雰囲気を感じてください→「無言館」公式ホームページ

偉そうですが、無言館の来歴について少し書いてみます。

「無言館」は美術評論家である窪島誠一郎によって1997年に開かれた美術館です。

開館からさかのぼること1979年。窪島館長は、自身が収集していたコレクションから、村山槐多の代表作である「尿する裸僧」などを中心に「信濃デッサン館」をオープンしました。

信濃デッサン館では、夭折した画家の作品を中心とした展示が特徴で、中でも館長肝煎りの村山槐多の作品は別館「槐多庵」として展示され人気を博していました。

時期を同じくして窪島館長は、1977に刊行された画集『祈りの画集――戦没画学生の記録』(日本放送出版協会)を手にします。この画集は1974年にNHKで放送された番組、NHK文化展望「祈りの画集」の内容を基にまとめられたもので、放送は大きな反響を呼び、番組内で扱った絵画作品をまとめて全国巡回展が開かれたほどでした。窪島館長はこの画集に掲載された作品とは別に、洋画家・野見山暁治氏の寄稿した文章に感銘を受けて心に留めていました。

野見山暁治氏は、2014年に文化勲章を受章し、2023年6月に102歳で人生を全うし逝去された日本を代表する洋画家の一人です。

そして後に「信濃デッサン館」を通じて野見山氏と親交を持つようになった窪島館長は、野見山氏から戦没画学生について詳しく話を聞いたことで「無言館」設立を決意し、具体的な行動を起こすきっかけとなったのです。

とはいえ想定される問題は山積みでした。

そもそも、戦没画学生の作品を集めるには、1件1件遺族と面会し了承してもらう必要があり、預かったとして仮に返却する場合など、作品の管理には通常の美術画よりも煩雑な手続きを必要とします。継続的に遺族とのコンタクトを保つ必要もあるのです。窪島館長は野見山氏の助力を得ながら根気よく全国を回り、画学生37名80作品の収蔵からスタートをしました。

施設の建設費用は全国から小口寄付を募り、より多くの方々からの支援を募りたいという方針から、大口の寄付は断ったりしたそうで、まかない切れなかった費用の半分は窪島館長が私財で補ったといいます。

施設の建設地選びも難航しました。ところが当時の上田市長が安価での賃貸を申し出たことで解決でき、こうして多くの人々からの力に支えられながら、多くの僥倖にも恵まれて開館へ至ったそうです。

こうした状況の中でも、窪島館長は休むことなく収蔵作品を増やし続け、2010年頃には作者数108名、作品数600余点となりました。また作品は全て同等に展示して欲しいと願う遺族からの意向などもあり、展示スペースの不足が問題化します。そこで再度、全国から寄付を募り果たして2008年、第2展示館として「傷ついた画布のドーム オリーヴの読書館」が開館しました。併設された「オーリブの読書館」は、約30000冊の蔵書から15000冊あまりの書籍を開架していて、美術書や展覧会カタログなどが充実している読書館です。

正面の「傷ついた画布のドーム」と右奥が「オリーブの読書館」

こうして多くの人に支えられながら歩き始めた無言館ですが、開館当初は10万人を数えた年間来館者数も、2010年には5万人へと漸減している現状があります。終戦からの周年という節目にはマスコミが押しかけ、そこからしばらくは来館者数は増加するものの、全体的には減少傾向にあることは変わらないのです。

窪島館長自身はマスコミだのみで来館者が増加することは本意で無いとの旨を発信したりもしています。イベント的な注目は本来の観賞意図からブレてしまうではないかと考えておられるようですが、とはいえ減っていく来館者は、直接的に運営の負担となっていくのです。

もう一つ、無言館自体の姿勢としてブレてしまっているポイントがあります。それは無言館が、美術館なのか戦没者追悼施設なのかという問題です。これは窪島館長も明確な結論が出せずにいるポイントでもあります。

まあ、実際にはどちらの側面を持つ施設なので線引きをする必要も無く、線引きすること自体が不可能なのです。もちろん美術作品を展示している美術館ですし、そこに”戦没画学生の作品”というテーマで限っただけといえばそうですが、実際には限定したテーマのみが話題として取り上げられるため、その側面が強調されてしまうのでしょう。

ではなぜ、この線引きが問題として感じられるかといえば、過去に一つの事件が起きたからといえます。

「慰霊碑赤ペンキ事件」。事件は2005年6月18日に起きました。

2004年春。無言館の入り口前に「記憶のパレット」と題した戦没画学生の慰霊碑が作られました。こちらも全国約1000人の寄付によって制作されたもので、戦没画学生489名の名前が刻まれました。

戦没画学生慰霊碑「記憶のパレット」

そして制作が完成した翌年の2005年6月18日、何者かがこの「記憶のパレット」に悪意を込めた赤ペンキをぶちまけました。犯人は見つかっていません。

この事件は、「記憶のパレット」制作によって、無言館が持つ戦没者追悼施設としての性質がより強調されたことが原因で、犯人が持つ政治思想を暴力的行為によって表明したものであることは想像に難しくないでしょう。

無言館顧問の野見山氏は、自身が表現者でもあることから、赤ペンキをそのまま残すよう主張しました。しかし戦没画学生の遺族にとって、それはあまりにも辛いという心情を汲んで、窪島館長は「記憶のパレット」に付着したペンキは消し取り、「傷ついた画布のドーム」の前に立つ「絵筆の碑(戦没画学生の使用した絵筆を埋め込んだ壁のような碑)」の一部に赤ペンキを模して復元したのです。

右上部分に赤ペンキが再現された「絵筆の碑」

確かに遺族にとっては戦没画学生の名前に赤ペンキが付いたままでは如何にもいたたまれません。折衷案としては良かったのだと思います。

こうして無言館は本来の意図とは別に、政治的な主張の具とされる立ち位置に存在しています。では、そのような側面は見えないよう排除していけば良いと考える向きもあるでしょう。しかし実際のところ、これは芸術鑑賞の姿勢を問うことにも繋がるのですが、無言館で鑑賞者が受ける深い感銘にその側面が必要であるからです。

どういうことかと言うと。そもそも芸術鑑賞における作品と鑑賞者との関係性は、以前から芸術論として大いに議論され、結論が出るタイプの問題ではないからです。簡単に言えば、鑑賞者が作品に臨む際、作品の背景(作者の意図や制作時の状況)を知る必要があるのか?ないのか?という問いです。背景を知らないまま作品に臨むことを”純粋鑑賞”であるとする立場と、背景を知ることで作者が表現しようとしたことを正しく理解できるとする立場の両極です。前者の立場であれば、作者の意図を無視することになると批判されますし、後者の立場であれば、背景を知らないのであれば鑑賞したことにならないと批判されています。そしてこれらの立場は表現を含む行為全般、絵画や立体物に限らず、映画、音楽、建築、料理などにおいても立論されて決着のつかない千年戦争が繰り広げられているのです。

こういう立場の対立から、改めて無言館を評してみれば、明確に背景を含めた表現を享受する展示をする美術館であるといえます。また、顧問の野見山氏は、正直なところ戦没画学生の作品自体は、取るに足らないものばかりだとしつつ、しかしながら背景を含めて眺め返すことで”味”のようなものを感じ取れるといった主旨を述べています。

こうしてみれば、無言館で展示される作品達は、夢を叶えられないまま夭折した表現者の卵達が、つたない表現のまま遺した”純粋表現”が集められたものであると思います。上記の対立する立場は、あくまで鑑賞者としての立場の分岐であって、表現する作者の側からいえば、常に純粋表現の結果として作品が産み落とされるだけだと思うのです。

同じく上記で紹介した「絵筆の碑」の裏側に彫られている言葉があります。

まさにこの言葉のとおり、いつも作者は愛するものを表現し作品として遺すだけですし、無言館の作品は死の覚悟をして愛する気持ちを伝えるために描かれて遺されものなのです。当然、政治的なあーだこーだなんて全く関係はありませんし、鑑賞の姿勢うんぬんも一旦、横に置いておいて臨めば、きっと心がうごく享受できる何かがあるはずです。

最後に。そういった中で、個人的に最も心がうごかされた、もちろん背景を含めて、心の一番奥から揺さぶられた作品を紹介したいと思います。

絵葉書

思わず出口で絵葉書を買ってしまいました。

なぜ、心がうごかされたかは書きません。敢えて誰のどういった作品かも明記しません。無言館の作品群の中でもよくメディアに取り上げられる著名な作品といった感じではないのでしょうか、ネットでもほとんどこの作品についての記述は見かけません。是非とも、気になった方には現地で確認をしにいって欲しいので書きません。そして足を運べば、きっと皆さんそれぞれに合ったお気に入りの作品が見つかるのではないかと思っています。ホント是非に。

石巻(いしのまき)・南三陸町(みなみさんりくちょう)へ再訪してきました。

今年は石巻と南三陸町へ久しぶりに行ってきました。

石巻駅から南三陸町へのルート
JR石巻駅から南三陸町へのルート

最初に、JR仙台駅から仙石線でJR石巻駅へと向かいました。

石巻駅からはJR石巻線で小牛田(こごた)方面へ進み、前谷地(まえやち)駅で気仙沼線へ乗り換え、南三陸町へと向かうルートを選びました。気仙沼線は東日本大震災後に柳津駅から先の南三陸町方面へはBRTというバスへ乗り換えて進むルートです。

JR石巻駅に着きました。

JR石巻駅前

石巻といえば、漫画家の故石ノ森章太郎ゆかりの地として有名です。

駅前通りをはじめ各所にサイボーグ009や仮面ライダーのキャラクター像が点在しています。

009島村ジョー像
仮面ライダーV3像

駅前から旧北上川の方へ少し歩けば、石ノ森漫画のミュージアム「石ノ森萬画館」があるのですが、生憎この日は空調設備整備工事ということで臨時の休館となっていました。

2024年3月29日まで臨時休館の「石ノ森萬画館」

「石ノ森萬画館」は旧北上川の中州にあります。川を下るように日和山の脇を通って海へ向かうと河口西側に南浜町と門脇町、雲雀野町からなる南浜地区が広がっています。

東日本大震災時、この南浜地区は地震、津波、火災、地盤沈下の被害を複合的に受けており、震災被害を象徴するエリアでもあります。およそ2000世帯、約4000人が暮らしており、そのうち約500人が犠牲となった最も被害が集中したエリアです。

旧北上川周辺

以前より河口に架かっていた日和大橋に加え、一段北側に「石巻かわみなと大橋」が造られました。この復興支援金を活用して造られた石巻かわみなと大橋は、通常は南浜地区と河口東側の湊地区を結ぶ物流の要として、災害時には避難路として期待され2022年3月に開通しました。

この地区は現在、門脇町2丁目~5丁目までが土地区画整理事業で「新門脇地区」とされ、復興記念公園として綺麗に整備されています。新門脇地区の南側の日和山際には石巻での震災を象徴する震災遺構「門脇小学校」が保存されており、門脇小学校の前を東西に走り石巻かわみなと大橋へと接続する道は高盛り土道路として波防の役割をもって整備されています。

石巻市震災遺構「門脇小学校」

震災による損傷が深刻で、また避難の後に児童の増加ものぞめなかった門脇小学校は震災遺構としての保存が決定されました。

地元ではその辛さから早期の解体を望む声もありました。しかしながら後世への教訓として残すことを石巻市は選択し、維持管理費の軽減も考慮して限定範囲での保存としたそうです。遺構として残すかどうかの判断は、被災した各地によって変わりますし、外部の人間がどうこう言えることではありません。残したい、残したくないの気持ちと維持管理費とのバランスからそれぞれの結論が出されるわけで、昨年の大槌町役場の判断も当然に議論が尽くされた結果として尊重したいなと思いました。

ちなみに昨年の大槌町訪問記録はこちら

震災遺構「門脇小学校」では、震災で火災が発生した校舎部分のうち中央部分を残して補強し、両サイド部分は解体され2022年4月3日に一般公開されました。被害の少なかった特別教室棟と体育館は展示スペースとなり、被災した消防車や遺された品々、応急仮設住宅などをみることができます。

体育館の展示スペース
老朽化で屋内保存される初代「がんばろう!石巻」看板

門脇小学校の西側には「MEET門脇」という震災伝承交流施設があります。

伝承交流施設MEET門脇

MEET門脇は、震災前後の人々の避難状況などに焦点を当て、震災が起きた時に人々がどう振舞ったのかを生々しく提示することで、後の教訓とすることが学べる施設です。被災者遺族の方のリアルな声には思わず言葉を失いました。

旧門脇小学校とMEET門脇と道を隔てた海側が「石巻南浜津波復興祈念公園」となりす。

石巻南浜津波復興祈念公園

高盛り土道路を隔てた海側の南浜町と雲雀野町は居住不可地区となり石巻南浜津波復興祈念公園が造られました。公園内唯一の建物である「みやぎ東日本大震災津波伝承館」があります。国営施設のため門脇小学校やMEET門脇と内容的に重なる部分もありますが、多目的に利用されるスペースなどもあって多くの人々が足を運ぶことになるでしょう。他にも各区画ごとに様々な施設やエリアが用意されています。全体的には整地がなされ区画も整理され、植樹も若く今後は様々な活動の場となっていく予定とのことです。

国営展示施設「みやぎ東日本大震災津波伝承館」
「みやぎ東日本大震災津波伝承館」入口
追悼の広場
「一丁目の丘」からの眺め
「石巻市慰霊碑」

石巻南浜津波復興祈念公園はコロナ禍もあって2021年6月に開園し、震災遺構の門脇小学校は2022年4月に一般公開されました。東日本大震災後、10年以上かけてやっと整備されたのです。石巻は被災した市町村の中でもダントツで津波浸水範囲が広く復興にはどれだけの時間を要するのか心配されており、10年以上の時間を経てやっと輪郭に実線が引かれたような段階まで戻ってきたように感じました。一見すれば遺構以外で震災の傷跡は見つけられませんが、活気と呼ぶにはまだまだ薄い雰囲気もあり、かつての風光明媚で豊富な漁場として、工業港を中心に発展した工業都市としての石巻となるにはまだまだ時間が必要だといえるでしょう。

石巻を離れて南三陸町へ向かいます。

石巻駅構内の石ノ森キャラクター
気仙沼線へ乗り換える前谷地駅

前谷地駅から気仙沼線へ乗り換え、柳津駅からBRTに乗って南三陸町を代表する商店街「南三陸さんさん商店街」の最寄り「志津川駅」で下車しました。

JR気仙沼線「志津川駅」停車場とBRT
JR気仙沼線「志津川駅」駅舎

前に訪れた時にはプレハブで代用された駅舎でした。

ちなみに5年前に南三陸町訪問記録はこちら

南三陸さんさん商店街

南三陸町は新たな中心街のグランドデザインを国立競技場のデザインでも知られる有名建築家の隈研吾さんに依頼しました。隈氏は「南三陸さんさん商店街」「中橋」「南三陸町東日本大震災伝承館 南三陸311メモリアル」の、いわゆる隈研吾3部作として受注。町を象徴する施設群の誕生となったのです。

2012年に仮設商店街として開かれた「南三陸さんさん商店街」は、先だって2017年3月3日(さんさん)にリニューアルオープン。

次いで2019年9月、町内を流れる八幡川(志津川)に架けられる「中橋」を竣工。

最後に2022年10月、志津川駅舎を含む「南三陸町東日本大震災伝承館 南三陸311メモリアル」がオープンし、3部作が完成しました。

あまりに綺麗になっていてビックリしました。

中橋
「南三陸町東日本大震災伝承館 南三陸311メモリアル」
「南三陸町東日本大震災伝承館」入口

「南三陸町東日本大震災伝承館 南三陸311メモリアル」では、地域住民の被災体験をもとに防災について共に考え、被災からの復興を目指して後の世代へ受け継ぐことを目的とした展示や取り組みがなされています。

「南三陸町東日本大震災伝承館」内

レンタルサイクルで町を見て回りました。

かつて商店街にあった南三陸町のアイコンでもあるモアイ像が海の方へ移動されていました。

モアイ像

津波による被災をきっかけに南三陸町とチリ共和国が結んだ友好の証としてのモアイ像。

チリ共和国と南三陸町をモアイ像が繋いだ経緯はこちら

お昼を過ぎて前回と同じ松原さんで昼食をいただきました。変わらず美味しい!

名物の「南三陸キラキラ丼」

南三陸に来たらコレですね。

震災遺構「ブライダルパレス高野会館」

あの時と変わらない姿の南三陸震災遺構「高野会館」です。

「南三陸震災復興祈念公園」

市街地であった場所が整備され、2020年10月に南三陸震災復興祈念公園が開園しました。園内には、小高い祈りの丘には津波記憶石(犠牲者の名簿を格納するモニュメント)が設置され、記念碑、かつて南三陸町防災対策庁舎であった震災遺構「旧南三陸町庁舎」があります。

この日、震災遺構「旧南三陸町庁舎」にも献花台が設けられ多くの人が訪れていました。

震災遺構「旧南三陸町庁舎」
志津川湾河口から川上の眺め

5年前と比べて町を見渡せば、むき出しだった旧市街地や道が綺麗に整備され、これから新たに発展していく町のような雰囲気になっていました。

前回もレンタルサイクルで回りましたが、今回はレンタルサイクルが商店街内にある写真店さんが3台ほど貸し出しているのみで、台数は随分減っていました。これは多くの人は車で訪れ、道路が整備されたことから悪路に強い自転車の需要が減ったのだろうと想像します。

また町内を流れる八幡川(志津川)の両岸はしっかりと護岸整備され、南三陸震災復興祈念公園をはじめ明確に区画され、インフラは整ったと思える段階にきたのかなと思いました。しかし、区画された中は未だ埋まっておらず、人が戻ってきたと言えるまでには多くの時間が必要であるようにも思いました。その点で、石巻と比べるとようやく3合目といった感じでしょうか。早く生まれ変わった町を見てみたいと思いました。

13年。震災後に生まれた子供が中学生になる時間が流れました。この時間が復興を果たすのに多いのか少ないのか分かりません。被災地それぞれにとっても復興の進捗は違いますが、外殻が整ったからといって昔のように人が戻ってきたところは無いのではないかと思います。また多くの時間は被災された人の中でも気持ちの変化を生み、3月11日にだけ押し寄せるマスコミから距離をとって、追悼式は内々で行いたいといった意見も出はじめたようです。いつまでも傷を傷として扱われることに抵抗を感じる気持ちはとても理解できるものです。毎年各被災地におじゃまする当HPも、町の雰囲気の変化にとどめ、追悼式や被災者の方にカメラを向けることは控えていかないとなと気づかされ戒めました。

とはいえ海鮮がとても美味しい南三陸町。また来たいなと思いました。