石巻(いしのまき)・南三陸町(みなみさんりくちょう)へ再訪してきました。

今年は石巻と南三陸町へ久しぶりに行ってきました。

石巻駅から南三陸町へのルート
JR石巻駅から南三陸町へのルート

最初に、JR仙台駅から仙石線でJR石巻駅へと向かいました。

石巻駅からはJR石巻線で小牛田(こごた)方面へ進み、前谷地(まえやち)駅で気仙沼線へ乗り換え、南三陸町へと向かうルートを選びました。気仙沼線は東日本大震災後に柳津駅から先の南三陸町方面へはBRTというバスへ乗り換えて進むルートです。

JR石巻駅に着きました。

JR石巻駅前

石巻といえば、漫画家の故石ノ森章太郎ゆかりの地として有名です。

駅前通りをはじめ各所にサイボーグ009や仮面ライダーのキャラクター像が点在しています。

009島村ジョー像
仮面ライダーV3像

駅前から旧北上川の方へ少し歩けば、石ノ森漫画のミュージアム「石ノ森萬画館」があるのですが、生憎この日は空調設備整備工事ということで臨時の休館となっていました。

2024年3月29日まで臨時休館の「石ノ森萬画館」

「石ノ森萬画館」は旧北上川の中州にあります。川を下るように日和山の脇を通って海へ向かうと河口西側に南浜町と門脇町、雲雀野町からなる南浜地区が広がっています。

東日本大震災時、この南浜地区は地震、津波、火災、地盤沈下の被害を複合的に受けており、震災被害を象徴するエリアでもあります。およそ2000世帯、約4000人が暮らしており、そのうち約500人が犠牲となった最も被害が集中したエリアです。

旧北上川周辺

以前より河口に架かっていた日和大橋に加え、一段北側に「石巻かわみなと大橋」が造られました。この復興支援金を活用して造られた石巻かわみなと大橋は、通常は南浜地区と河口東側の湊地区を結ぶ物流の要として、災害時には避難路として期待され2022年3月に開通しました。

この地区は現在、門脇町2丁目~5丁目までが土地区画整理事業で「新門脇地区」とされ、復興記念公園として綺麗に整備されています。新門脇地区の南側の日和山際には石巻での震災を象徴する震災遺構「門脇小学校」が保存されており、門脇小学校の前を東西に走り石巻かわみなと大橋へと接続する道は高盛り土道路として波防の役割をもって整備されています。

石巻市震災遺構「門脇小学校」

震災による損傷が深刻で、また避難の後に児童の増加ものぞめなかった門脇小学校は震災遺構としての保存が決定されました。

地元ではその辛さから早期の解体を望む声もありました。しかしながら後世への教訓として残すことを石巻市は選択し、維持管理費の軽減も考慮して限定範囲での保存としたそうです。遺構として残すかどうかの判断は、被災した各地によって変わりますし、外部の人間がどうこう言えることではありません。残したい、残したくないの気持ちと維持管理費とのバランスからそれぞれの結論が出されるわけで、昨年の大槌町役場の判断も当然に議論が尽くされた結果として尊重したいなと思いました。

ちなみに昨年の大槌町訪問記録はこちら

震災遺構「門脇小学校」では、震災で火災が発生した校舎部分のうち中央部分を残して補強し、両サイド部分は解体され2022年4月3日に一般公開されました。被害の少なかった特別教室棟と体育館は展示スペースとなり、被災した消防車や遺された品々、応急仮設住宅などをみることができます。

体育館の展示スペース
老朽化で屋内保存される初代「がんばろう!石巻」看板

門脇小学校の西側には「MEET門脇」という震災伝承交流施設があります。

伝承交流施設MEET門脇

MEET門脇は、震災前後の人々の避難状況などに焦点を当て、震災が起きた時に人々がどう振舞ったのかを生々しく提示することで、後の教訓とすることが学べる施設です。被災者遺族の方のリアルな声には思わず言葉を失いました。

旧門脇小学校とMEET門脇と道を隔てた海側が「石巻南浜津波復興祈念公園」となりす。

石巻南浜津波復興祈念公園

高盛り土道路を隔てた海側の南浜町と雲雀野町は居住不可地区となり石巻南浜津波復興祈念公園が造られました。公園内唯一の建物である「みやぎ東日本大震災津波伝承館」があります。国営施設のため門脇小学校やMEET門脇と内容的に重なる部分もありますが、多目的に利用されるスペースなどもあって多くの人々が足を運ぶことになるでしょう。他にも各区画ごとに様々な施設やエリアが用意されています。全体的には整地がなされ区画も整理され、植樹も若く今後は様々な活動の場となっていく予定とのことです。

国営展示施設「みやぎ東日本大震災津波伝承館」
「みやぎ東日本大震災津波伝承館」入口
追悼の広場
「一丁目の丘」からの眺め
「石巻市慰霊碑」

石巻南浜津波復興祈念公園はコロナ禍もあって2021年6月に開園し、震災遺構の門脇小学校は2022年4月に一般公開されました。東日本大震災後、10年以上かけてやっと整備されたのです。石巻は被災した市町村の中でもダントツで津波浸水範囲が広く復興にはどれだけの時間を要するのか心配されており、10年以上の時間を経てやっと輪郭に実線が引かれたような段階まで戻ってきたように感じました。一見すれば遺構以外で震災の傷跡は見つけられませんが、活気と呼ぶにはまだまだ薄い雰囲気もあり、かつての風光明媚で豊富な漁場として、工業港を中心に発展した工業都市としての石巻となるにはまだまだ時間が必要だといえるでしょう。

石巻を離れて南三陸町へ向かいます。

石巻駅構内の石ノ森キャラクター
気仙沼線へ乗り換える前谷地駅

前谷地駅から気仙沼線へ乗り換え、柳津駅からBRTに乗って南三陸町を代表する商店街「南三陸さんさん商店街」の最寄り「志津川駅」で下車しました。

JR気仙沼線「志津川駅」停車場とBRT
JR気仙沼線「志津川駅」駅舎

前に訪れた時にはプレハブで代用された駅舎でした。

ちなみに5年前に南三陸町訪問記録はこちら

南三陸さんさん商店街

南三陸町は新たな中心街のグランドデザインを国立競技場のデザインでも知られる有名建築家の隈研吾さんに依頼しました。隈氏は「南三陸さんさん商店街」「中橋」「南三陸町東日本大震災伝承館 南三陸311メモリアル」の、いわゆる隈研吾3部作として受注。町を象徴する施設群の誕生となったのです。

2012年に仮設商店街として開かれた「南三陸さんさん商店街」は、先だって2017年3月3日(さんさん)にリニューアルオープン。

次いで2019年9月、町内を流れる八幡川(志津川)に架けられる「中橋」を竣工。

最後に2022年10月、志津川駅舎を含む「南三陸町東日本大震災伝承館 南三陸311メモリアル」がオープンし、3部作が完成しました。

あまりに綺麗になっていてビックリしました。

中橋
「南三陸町東日本大震災伝承館 南三陸311メモリアル」
「南三陸町東日本大震災伝承館」入口

「南三陸町東日本大震災伝承館 南三陸311メモリアル」では、地域住民の被災体験をもとに防災について共に考え、被災からの復興を目指して後の世代へ受け継ぐことを目的とした展示や取り組みがなされています。

「南三陸町東日本大震災伝承館」内

レンタルサイクルで町を見て回りました。

かつて商店街にあった南三陸町のアイコンでもあるモアイ像が海の方へ移動されていました。

モアイ像

津波による被災をきっかけに南三陸町とチリ共和国が結んだ友好の証としてのモアイ像。

チリ共和国と南三陸町をモアイ像が繋いだ経緯はこちら

お昼を過ぎて前回と同じ松原さんで昼食をいただきました。変わらず美味しい!

名物の「南三陸キラキラ丼」

南三陸に来たらコレですね。

震災遺構「ブライダルパレス高野会館」

あの時と変わらない姿の南三陸震災遺構「高野会館」です。

「南三陸震災復興祈念公園」

市街地であった場所が整備され、2020年10月に南三陸震災復興祈念公園が開園しました。園内には、小高い祈りの丘には津波記憶石(犠牲者の名簿を格納するモニュメント)が設置され、記念碑、かつて南三陸町防災対策庁舎であった震災遺構「旧南三陸町庁舎」があります。

この日、震災遺構「旧南三陸町庁舎」にも献花台が設けられ多くの人が訪れていました。

震災遺構「旧南三陸町庁舎」
志津川湾河口から川上の眺め

5年前と比べて町を見渡せば、むき出しだった旧市街地や道が綺麗に整備され、これから新たに発展していく町のような雰囲気になっていました。

前回もレンタルサイクルで回りましたが、今回はレンタルサイクルが商店街内にある写真店さんが3台ほど貸し出しているのみで、台数は随分減っていました。これは多くの人は車で訪れ、道路が整備されたことから悪路に強い自転車の需要が減ったのだろうと想像します。

また町内を流れる八幡川(志津川)の両岸はしっかりと護岸整備され、南三陸震災復興祈念公園をはじめ明確に区画され、インフラは整ったと思える段階にきたのかなと思いました。しかし、区画された中は未だ埋まっておらず、人が戻ってきたと言えるまでには多くの時間が必要であるようにも思いました。その点で、石巻と比べるとようやく3合目といった感じでしょうか。早く生まれ変わった町を見てみたいと思いました。

13年。震災後に生まれた子供が中学生になる時間が流れました。この時間が復興を果たすのに多いのか少ないのか分かりません。被災地それぞれにとっても復興の進捗は違いますが、外殻が整ったからといって昔のように人が戻ってきたところは無いのではないかと思います。また多くの時間は被災された人の中でも気持ちの変化を生み、3月11日にだけ押し寄せるマスコミから距離をとって、追悼式は内々で行いたいといった意見も出はじめたようです。いつまでも傷を傷として扱われることに抵抗を感じる気持ちはとても理解できるものです。毎年各被災地におじゃまする当HPも、町の雰囲気の変化にとどめ、追悼式や被災者の方にカメラを向けることは控えていかないとなと気づかされ戒めました。

とはいえ海鮮がとても美味しい南三陸町。また来たいなと思いました。

国宝「火焔型土器」を初めて観てきました(新潟県十日町市博物館)

今年、新潟では「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」という3年に1度開かれる美術祭が開催されています。越後妻有地域を中心に屋内屋外を問わず設けられた展示場で新しい美術作品の数々を観賞することができます。「大地の芸術祭」自体は通年で常設されているのですが、3年に1度のトリエンナーレでは多数の新作が公開されるため多くの人々が新潟を訪れる一大イベントです。

ちなみにこちらが「越後妻有里山現代美術館 MonET」の中庭にある レアンドロ・エルリッヒ『Palimpsest: 空の池』で水に反射しているように見える絵です。驚きのリアルさです。

「越後妻有里山現代美術館 MonET」公式HP

越後妻有里山現代美術館 MonET、レアンドロ・エルリッヒ『Palimpsest: 空の池』

こういった理由から新潟県十日町市を訪れることにしたのですが、それとは別に観ておきたい物があり、美術館近くにある「十日町市博物館」を訪れました。

十日町駅

”JR飯山線”または”ほくほく線”の十日町駅西口から徒歩で約10分。真夏にはちょっと応える距離に十日町市博物館はあります。

十日町市博物館

十日町市博物館は、新潟県十日町市が運営する市営の博物館で「雪と織物と信濃川」をテーマに1979年4月に開館しました。このテーマを聞くと、なんとも優等生な感じのする、平たくいえば興味の湧きづらいものですが、飛び切りに目を引くまさに「お宝」があるのです。

それが「火焔型土器」です。

火焔型土器6号

誰もが教科書で見たことがある、見覚えのある土器じゃないでしょうか。

しかし見覚えはあるものの、この火焔型土器の背景について知っている人は少ないのではないでしょうか。少し説明してみます。

まずはその名から。実は「火焔土器」と「火焔型土器」とがあり、これらは別の意味を持ちます。1936年、新潟県長岡市関原町の馬高遺跡で近藤篤三郎により見つかった初めての火焔をデザインした土器を火焔土器と呼び、その後に出土した火焔デザイン土器を火焔型土器とよびます。もちろん火焔をデザインしたのかどうかは議論の残るポイントで、現代人にとっては火焔にみえるということです。この最初の発見以後、次々と類似の火焔デザイン土器が見つかったことで”型”としてのカテゴライズがなされ、最初の火焔土器も”最初に見つかった火焔型土器”として型のカテゴリーに含まれることとなりました。

そしてこれらの火焔型土器は、新潟県の信濃川中流域で集中的に出土しており、先の長岡市馬高遺跡、十日町市笹山遺跡、野首遺跡で多く発見されています。時代でいえば1万年以上続いた縄文時代の中期、今からおよそ5500年前~4400年前の間でのみ作られたもので、いうならば一部の地域で、ある期間にだけ盛んに作られたブームのような土器で、十日町市博物館では時代や地域によってどのようなデザインの変遷があったのか実際の土器をもって詳しく解説されています。

火焔型土器深鉢型1
火焔型土器深鉢型2
深鉢型土器

火焔型土器は、縄文時代に作られたものなに時代名の由来となった縄目がほとんどありません。土器の胴部に粘土紐を張り付けることで火焔のようなデザインがなされ、竹などでS字や渦巻のような文様を描いており、いわゆる縄文土器の作りとは異なる生成方法がとられ深鉢型のものが多いのが特徴です。その用途は土器の内側に残された焦げなどから実際に調理用品として用いられていたようで、木の実や肉、魚などを煮ていたことがわかっています。ただ調理目的のみで使用するには、あまりにも使いづらいデザインを持つため、本当に調理目的だけだったのかはいまにハッキリしていません。

現代人から見れば火焔を思わせる複雑で禍々しい雰囲気を持つ火焔型土器は、いわゆる縄文(縄目のデザインがほどこされた)土器とは違う、亜流の土器であるはずなのに人々の記憶に強く残る異様さが確かにあります。あの日本を代表する芸術家で民俗学者でもある岡本太郎が初めて火焔型土器を見た時「なんだこれは!」と叫び、彼いわく日本文化の源流であることは疑いようのない事実だと感嘆し、彼にとてつもなく大きな衝撃を与えたことは有名な話です。一方で岡本太郎は「火焔型土器は深海のイメージだ」とも言い、その真意はよくわかっていませんが、なんだか彼独特の感性をあらわす意味深なエピソードですね。

十日町市博物館の目玉はこの火焔型土器なのですが、それらが出土した笹山遺跡では他にも多くの出土品があり、これらをまとめて縄文中期の人々の生活を再現した展示になっています。

十日町市博物館、縄文時代と火焔型土器のクニ入口
十日町市博物館、縄文時代と火焔型土器のクニ内1
十日町市博物館、縄文時代と火焔型土器のクニ内2
十日町市博物館、縄文時代と火焔型土器のクニ、国宝展示室

十日町市は新潟県の内陸にあり雪多い土地です。先にも述べましたが十日町市博物館は1979年、当初は「雪と織物と信濃川」をテーマに開館しました。この地に住む人々が営み続けてきた豊かで厳しい自然との付き合い方や、歴史ある織物について展示され、十日町市での生活が詳しくわかります。

十日町市博物館内
十日町市博物館、雪と信濃川
十日町市博物館、織物の歴史

こうしてこの土地に暮らす人々の生活をテーマにして始まった十日町市博物館は、1991年に「考古展示室」「中世展示室」を増築し、火焔型土器を多く出土する笹山遺跡をフィーチャーします。すると1992年この笹山遺跡から出土した火焔型土器を含む深鉢形土器57点が重要文化財指定を受け、1999年には国宝へ昇格します。これは現在でも新潟県で唯一の国宝となり、文字通り「お宝」が誕生したのです。このことは県内外から注目を集めて多くの来訪者を呼び、2020年には新たな施設を築いてリニューアルオープンしTOPPAKUの愛称で親しまれています。

正直「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」がきっかけで訪れたとはいえ十分に満足できた十日町市博物館です。歴史の授業で知ってはいた火焔型土器がこんなにも迫力があり、重く、得も言われぬオーラを感じられるものだと初めて知りました。岡本太郎が言うように日本文化のルーツであり、アートという概念すら生まれる前の太古の時代に生きた人々の願いのようなものまで感じられました。軽い気分で訪れるには少しハードルのある新潟県十日町市ですが、国宝である深鉢型土器は57点もあるため一度に展示することができません。研究目的での貸し出しもあったりするため、全てを見るには何回か訪れる必要があります。中でも最も保存状態が良く、美しいとされる1号の火焔型土器は今回展示されておらず、1番上の写真も実は6号の火焔型土器なのです。これは、またいつの日か1号を見るため、ここに戻ってきなさいねという縄文人からのメッセージなのだろうなと思って帰路についたのです。