舞台「獣の柱」イキウメ

舞台「獣の柱」イキウメ

ちょっと変なお話、ちょっと奇妙なお話、ちょっと不思議なお話。そんな現実のすぐ隣にあるセンスオブワンダーで楽しませてくれるのが劇団「イキウメ」です。

劇団「イキウメ」を主宰する前川知大さんが描き出す世界は、設定は違えども理路整然と進行していくのが特徴としてあります。このどこか数学的な物語の展開にありながら、空間を支配しているのは得体の知れない”意思”のようなもので、理性の世界が歪められる楽しさと気持ち良さがあって大好きなのです。

本作の「獣の柱」は2013年にも上演されました。今回はさらにブラッシュアップされた脚本とさらに広げられた世界観となっており、分かりにくさは少し増している感じがしました。

『ある日、地球に落ちてきた隕石には、それを見た者を幸福感で無力化する力がありました。そんな時その隕石を利用したと思われる世界的なテロ(と言っても被害者は幸福感に満たされているのですが)が起きて世界に歪が生じます。1年後、今度は世界中に300m近くもある巨大な”黒い柱”が無数に降り注ぎ、次々と柱を見た者を幸福のうちに無力化しはじめるのでした。』

「イキウメ」の舞台にはしばしば人知を超えた力が出てきます。だからといって登場人物が持て余すような圧倒的な力ではありませんし、物語の展開のバランスを崩すような”なんでもあり感”も無いので、シリアスに違和感なく登場に感情移入が出来ます。SFテイストな創作ではそんなの当たり前だともいえますが、意外とバランスを崩している作品も散見されますし、この圧倒的説得力にはいつも感心してしまいます。で、今回はそれが”黒い柱”ということになります。

ネタバレ的なことは避けて感想を言いたいと思います。

しばしば語られるジョークとして「もしゾンビになることが快感だとしたらゾンビになった方が幸せなんじゃないか?」といった問題提起があります。幸福も不幸も最終的には個々人のジャッジに依るため、他人がそれを”盲信”としてレッテルを貼ることに意味はあるのだろうか?ましてや正義を定め、その盲信を奪うことは奪われた個人にとって不幸でしかないのではないか?という”幸福”を定義するためには避けてとおれない問題があり、結論は出ていません。

「好きなんだったらいいんじゃない?」といった結論を出した風のやり過ごしはよく目にします。しかし、ことその盲信の対象がカルトとされる宗教であったり、ある種のカリスマ的扇動者だったりしたら、そしてそれを信じるのが自分にとって大切な人だったら”いいんじゃない?”では済ませられないでしょう。そして多くの場合、”カルト”や”扇動者”といったレッテルも、多数決的な社会正義という角度から貼られるわけですし、少数だからといって否定することは”暴力”なのかもしれないという議論もあります。

最近よく”意識的”な人達が「多様性」という正義を口にします。もちろん差別などが良くないことだということは分かっていますが、この多様性という概念は民主主義社会を成立させている多数決という手段に相容れない局面を多く生み出します。そして「好きなんだったらいいんじゃない?」といった保留では済まない場面、何かしらの結論をもってどこかに線を引かなければいけない状況に直面した時、人類は平和裏に解決を迎えることは出来るのでしょうか?近い将来、人類は何かしらの結論を出さなければいけない場面が訪れる気がしてなりません。それだけ世界には多くの人が住み、世界中で多様性を口にしはじめているのだから。

こうして今回の舞台を見て勝手にあーだこーだと言っていますが、もしかしたら舞台とは全然関係のない、ピント外れなことかもしれません。連想に連想を重ねた筋違いな妄想なので合っているとか間違っているとか言われても困るのですが、的外れついでに一つ付け加えるなら、相容れない2つの概念が生み出す軋轢を解消する唯一の方法を思いつきました。対立する2つの概念の衝突を避けるには、上位概念を生み出せば良いんです。2つの概念の包括する上位概念を。

え?インチキじゃないかって?いいじゃないですか、平和に解決できるならインチキも一つの答えだと思ったんです。めでたしめでたし。

映画「バーニング(劇場版)」イ・チャンドン監督

「バーニング(劇場版)」

8年待ちました。

イ・チャンドン監督は非常に寡作で、キャリア20年を越えて6本の映画しか撮っていません。 で、前作から8年が過ぎて公開されたのが本作です。「万引き家族」がパルム・ドールに輝いた第71回カンヌ国際映画祭では、批評家ジャッジで過去最高得点の4.8を出し、下馬評は高かったものの無冠に終わってしまいました。さらに日本では原作が村上春樹の短編小説「納屋を焼く」ということもあって注目が集った作品です。 原作から骨組みを拝借して大胆に再解釈し、舞台を現代の韓国社会に置きかえて、より登場人物と距離を近くした感じの仕上がりになっています。

先に言っておきますとイ・チャンドン映画のファンなので、そのあたりの偏向があることをご容赦ください。それを踏まえて言いますが、この映画やっぱり”傑作”です。韓国に限らず世界的にも巨匠として誉れの高いイ・チャンドン監督。その作風は観た人の心にドスンと”重い一発”を打ち込むものなので、デートで観るのは避けた方がいいかもですねが。

物語は3人の若い男女が中心に描かれます。小説家志望と言いながらまだ1作も書けずにいるイ・ジョンスは、暴力事件で逮捕された父親にかわって北朝鮮との国境近くの田舎で家畜の世話をしている青年。ある日、街に出たジョンスは”幼なじみだと語る”女性シン・ヘミと会い、近々アフリカ旅行にいくヘミの留守中に猫の世話を頼まれます。アフリカ帰りのヘミを迎えにいくジョンス。しかし彼女の隣には旅先で知り合ったベンと名乗る男がいました。都会的で裕福なベンに気負ってしまうジョンスは、距離を縮めるベンとヘミの間に入れません。ところがある時、高級車に乗ったベンとヘミがジョンスの家を訪れます。そこでベンはジョンスに言います。自分には”古くなったビニールハウスを燃やす”趣味があり、近々また燃やすだろうと。この唐突な告白に異様さを感じるジョンス。そしてその日を境にヘミの姿が忽然と消えてしまった・・・

この作品は現代の韓国社会だけでなく、今、世界中の人々が抱えている”鬱屈した思い”を描いているなと思いました。ものごとを数値化して計ることは簡単ですが、現実はそんな単純な物差しでは測れない複雑なものです。しかし人間は数値化した方が理解しやすい生き物。残念ながら、情報化が進む現実の中では物差しが無数に増殖し、それらの目盛りを上げようとして疲弊する人が量産されています。目盛りを上げること”だけ”が幸せだとする現実に迫られている多くの人々を代弁しているような作品だと思いました。

劇中でヘミは”みかんを食べる”パントマムをし「”無い”と思うことを忘れることが、”有る”ように見える演技のコツだ」 と言います。都会に出て顔を整形し、アフリカ旅行をする。そんなインスタ映えともとれる”目盛り上げ”に注力するヘミは、未来に”絶望は無い”と思うことで”希望がある”と信じているよう。

ジョンスは、まるで自分が何も”持っていない”ように規定してくる社会の無数の物差しに囲まれ、自分が何者なのか見失いそうになりながら日常に時間を費やしているばかりで、自分は小説として何を描けばいいのか分からずにいます。

ベンは全てを手に入れような富裕層だが「涙を流したことがないから悲しいという気持ちがわからない」という、まるで”有る”ことは無くさないとわからないといった風のリアリストで、全ての目盛りを高く持つ者です。

三者三様。あふれる情報社会の中で”自分”というものを確かめようとするのですが、現実社会では目盛りの高い者がイニシアティブを持つため、ベンの意図によってヘミやジョンスは振り回されてしまうのです。

ジョンスの家の庭で3人がくつろぐシーンは特別に美しかったですね。酒を飲みながらヘミが踊り日が暮れる逢魔の時。それを最後に姿を消したヘミを必死に探すジョンス。ベンはヘミの失踪について知らないと言い、一方すでにビニールハウスは燃やしたと言う。ジョンスは自分の中に”有る”大切なもの、あの日ヘミの部屋で見た光を掴もうとするようにヘミの痕跡を追い求めます。しかし欠片のようなものがあるばかりで、誰もヘミが”有る”ことに目を向けようとしない。ジョンスが焦燥感にかられ、初めて自分の意思だけを理由にヘミを探すこのシーンからグングンと物語に引き込まれてしまいました。

「自分が何者かは自分が決めるもので、他人に決められたくない」

そんな想いは誰にもあると思うのですが、一人の人間の存在など有っても無くても同じだと流れ続ける”社会”という得体の知れないものに切り込むジョンスの姿が、見る側の心とリンクしてきます。

誰かが決めた物差しが無数に重なり、ホログラムのように化け物の像を結んだものが”社会”であって、目盛りが高くなければ存在しないのも同然と迫ってくる社会への反抗。最後に意思を持ったジョンスは、そんな社会の目盛りを一足飛びに越えて自分の手でイニシアティブを握る手段に出ます。

善悪は社会で決めるものなので、ジョンスがとった手段は世間が認められるものではありません。しかしそうしないと消えてしまう、消されてしまう大切なものを、自分が”有る”と信じるために選んだ手段だったのではないかなと思いました。非常に切なくて残酷で、でも信じたくなる作品だなと思いました。

追記ですが、本作のタイトルに「劇場版」と付くのは、村上春樹を原作とした映像をアジアの監督たちが撮るという企画がありまして、それをNHKが出資したことから、先行して短縮版がテレビ放映されたからだそうです。