8年待ちました。
イ・チャンドン監督は非常に寡作で、キャリア20年を越えて6本の映画しか撮っていません。 で、前作から8年が過ぎて公開されたのが本作です。「万引き家族」がパルム・ドールに輝いた第71回カンヌ国際映画祭では、批評家ジャッジで過去最高得点の4.8を出し、下馬評は高かったものの無冠に終わってしまいました。さらに日本では原作が村上春樹の短編小説「納屋を焼く」ということもあって注目が集った作品です。 原作から骨組みを拝借して大胆に再解釈し、舞台を現代の韓国社会に置きかえて、より登場人物と距離を近くした感じの仕上がりになっています。
先に言っておきますとイ・チャンドン映画のファンなので、そのあたりの偏向があることをご容赦ください。それを踏まえて言いますが、この映画やっぱり”傑作”です。韓国に限らず世界的にも巨匠として誉れの高いイ・チャンドン監督。その作風は観た人の心にドスンと”重い一発”を打ち込むものなので、デートで観るのは避けた方がいいかもですねが。
物語は3人の若い男女が中心に描かれます。小説家志望と言いながらまだ1作も書けずにいるイ・ジョンスは、暴力事件で逮捕された父親にかわって北朝鮮との国境近くの田舎で家畜の世話をしている青年。ある日、街に出たジョンスは”幼なじみだと語る”女性シン・ヘミと会い、近々アフリカ旅行にいくヘミの留守中に猫の世話を頼まれます。アフリカ帰りのヘミを迎えにいくジョンス。しかし彼女の隣には旅先で知り合ったベンと名乗る男がいました。都会的で裕福なベンに気負ってしまうジョンスは、距離を縮めるベンとヘミの間に入れません。ところがある時、高級車に乗ったベンとヘミがジョンスの家を訪れます。そこでベンはジョンスに言います。自分には”古くなったビニールハウスを燃やす”趣味があり、近々また燃やすだろうと。この唐突な告白に異様さを感じるジョンス。そしてその日を境にヘミの姿が忽然と消えてしまった・・・
この作品は現代の韓国社会だけでなく、今、世界中の人々が抱えている”鬱屈した思い”を描いているなと思いました。ものごとを数値化して計ることは簡単ですが、現実はそんな単純な物差しでは測れない複雑なものです。しかし人間は数値化した方が理解しやすい生き物。残念ながら、情報化が進む現実の中では物差しが無数に増殖し、それらの目盛りを上げようとして疲弊する人が量産されています。目盛りを上げること”だけ”が幸せだとする現実に迫られている多くの人々を代弁しているような作品だと思いました。
劇中でヘミは”みかんを食べる”パントマムをし「”無い”と思うことを忘れることが、”有る”ように見える演技のコツだ」 と言います。都会に出て顔を整形し、アフリカ旅行をする。そんなインスタ映えともとれる”目盛り上げ”に注力するヘミは、未来に”絶望は無い”と思うことで”希望がある”と信じているよう。
ジョンスは、まるで自分が何も”持っていない”ように規定してくる社会の無数の物差しに囲まれ、自分が何者なのか見失いそうになりながら日常に時間を費やしているばかりで、自分は小説として何を描けばいいのか分からずにいます。
ベンは全てを手に入れような富裕層だが「涙を流したことがないから悲しいという気持ちがわからない」という、まるで”有る”ことは無くさないとわからないといった風のリアリストで、全ての目盛りを高く持つ者です。
三者三様。あふれる情報社会の中で”自分”というものを確かめようとするのですが、現実社会では目盛りの高い者がイニシアティブを持つため、ベンの意図によってヘミやジョンスは振り回されてしまうのです。
ジョンスの家の庭で3人がくつろぐシーンは特別に美しかったですね。酒を飲みながらヘミが踊り日が暮れる逢魔の時。それを最後に姿を消したヘミを必死に探すジョンス。ベンはヘミの失踪について知らないと言い、一方すでにビニールハウスは燃やしたと言う。ジョンスは自分の中に”有る”大切なもの、あの日ヘミの部屋で見た光を掴もうとするようにヘミの痕跡を追い求めます。しかし欠片のようなものがあるばかりで、誰もヘミが”有る”ことに目を向けようとしない。ジョンスが焦燥感にかられ、初めて自分の意思だけを理由にヘミを探すこのシーンからグングンと物語に引き込まれてしまいました。
「自分が何者かは自分が決めるもので、他人に決められたくない」
そんな想いは誰にもあると思うのですが、一人の人間の存在など有っても無くても同じだと流れ続ける”社会”という得体の知れないものに切り込むジョンスの姿が、見る側の心とリンクしてきます。
誰かが決めた物差しが無数に重なり、ホログラムのように化け物の像を結んだものが”社会”であって、目盛りが高くなければ存在しないのも同然と迫ってくる社会への反抗。最後に意思を持ったジョンスは、そんな社会の目盛りを一足飛びに越えて自分の手でイニシアティブを握る手段に出ます。
善悪は社会で決めるものなので、ジョンスがとった手段は世間が認められるものではありません。しかしそうしないと消えてしまう、消されてしまう大切なものを、自分が”有る”と信じるために選んだ手段だったのではないかなと思いました。非常に切なくて残酷で、でも信じたくなる作品だなと思いました。
追記ですが、本作のタイトルに「劇場版」と付くのは、村上春樹を原作とした映像をアジアの監督たちが撮るという企画がありまして、それをNHKが出資したことから、先行して短縮版がテレビ放映されたからだそうです。