国宝「火焔型土器」を初めて観てきました(新潟県十日町市博物館)

今年、新潟では「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」という3年に1度開かれる美術祭が開催されています。越後妻有地域を中心に屋内屋外を問わず設けられた展示場で新しい美術作品の数々を観賞することができます。「大地の芸術祭」自体は通年で常設されているのですが、3年に1度のトリエンナーレでは多数の新作が公開されるため多くの人々が新潟を訪れる一大イベントです。

ちなみにこちらが「越後妻有里山現代美術館 MonET」の中庭にある レアンドロ・エルリッヒ『Palimpsest: 空の池』で水に反射しているように見える絵です。驚きのリアルさです。

「越後妻有里山現代美術館 MonET」公式HP

越後妻有里山現代美術館 MonET、レアンドロ・エルリッヒ『Palimpsest: 空の池』

こういった理由から新潟県十日町市を訪れることにしたのですが、それとは別に観ておきたい物があり、美術館近くにある「十日町市博物館」を訪れました。

十日町駅

”JR飯山線”または”ほくほく線”の十日町駅西口から徒歩で約10分。真夏にはちょっと応える距離に十日町市博物館はあります。

十日町市博物館

十日町市博物館は、新潟県十日町市が運営する市営の博物館で「雪と織物と信濃川」をテーマに1979年4月に開館しました。このテーマを聞くと、なんとも優等生な感じのする、平たくいえば興味の湧きづらいものですが、飛び切りに目を引くまさに「お宝」があるのです。

それが「火焔型土器」です。

火焔型土器6号

誰もが教科書で見たことがある、見覚えのある土器じゃないでしょうか。

しかし見覚えはあるものの、この火焔型土器の背景について知っている人は少ないのではないでしょうか。少し説明してみます。

まずはその名から。実は「火焔土器」と「火焔型土器」とがあり、これらは別の意味を持ちます。1936年、新潟県長岡市関原町の馬高遺跡で近藤篤三郎により見つかった初めての火焔をデザインした土器を火焔土器と呼び、その後に出土した火焔デザイン土器を火焔型土器とよびます。もちろん火焔をデザインしたのかどうかは議論の残るポイントで、現代人にとっては火焔にみえるということです。この最初の発見以後、次々と類似の火焔デザイン土器が見つかったことで”型”としてのカテゴライズがなされ、最初の火焔土器も”最初に見つかった火焔型土器”として型のカテゴリーに含まれることとなりました。

そしてこれらの火焔型土器は、新潟県の信濃川中流域で集中的に出土しており、先の長岡市馬高遺跡、十日町市笹山遺跡、野首遺跡で多く発見されています。時代でいえば1万年以上続いた縄文時代の中期、今からおよそ5500年前~4400年前の間でのみ作られたもので、いうならば一部の地域で、ある期間にだけ盛んに作られたブームのような土器で、十日町市博物館では時代や地域によってどのようなデザインの変遷があったのか実際の土器をもって詳しく解説されています。

火焔型土器深鉢型1
火焔型土器深鉢型2
深鉢型土器

火焔型土器は、縄文時代に作られたものなに時代名の由来となった縄目がほとんどありません。土器の胴部に粘土紐を張り付けることで火焔のようなデザインがなされ、竹などでS字や渦巻のような文様を描いており、いわゆる縄文土器の作りとは異なる生成方法がとられ深鉢型のものが多いのが特徴です。その用途は土器の内側に残された焦げなどから実際に調理用品として用いられていたようで、木の実や肉、魚などを煮ていたことがわかっています。ただ調理目的のみで使用するには、あまりにも使いづらいデザインを持つため、本当に調理目的だけだったのかはいまにハッキリしていません。

現代人から見れば火焔を思わせる複雑で禍々しい雰囲気を持つ火焔型土器は、いわゆる縄文(縄目のデザインがほどこされた)土器とは違う、亜流の土器であるはずなのに人々の記憶に強く残る異様さが確かにあります。あの日本を代表する芸術家で民俗学者でもある岡本太郎が初めて火焔型土器を見た時「なんだこれは!」と叫び、彼いわく日本文化の源流であることは疑いようのない事実だと感嘆し、彼にとてつもなく大きな衝撃を与えたことは有名な話です。一方で岡本太郎は「火焔型土器は深海のイメージだ」とも言い、その真意はよくわかっていませんが、なんだか彼独特の感性をあらわす意味深なエピソードですね。

十日町市博物館の目玉はこの火焔型土器なのですが、それらが出土した笹山遺跡では他にも多くの出土品があり、これらをまとめて縄文中期の人々の生活を再現した展示になっています。

十日町市博物館、縄文時代と火焔型土器のクニ入口
十日町市博物館、縄文時代と火焔型土器のクニ内1
十日町市博物館、縄文時代と火焔型土器のクニ内2
十日町市博物館、縄文時代と火焔型土器のクニ、国宝展示室

十日町市は新潟県の内陸にあり雪多い土地です。先にも述べましたが十日町市博物館は1979年、当初は「雪と織物と信濃川」をテーマに開館しました。この地に住む人々が営み続けてきた豊かで厳しい自然との付き合い方や、歴史ある織物について展示され、十日町市での生活が詳しくわかります。

十日町市博物館内
十日町市博物館、雪と信濃川
十日町市博物館、織物の歴史

こうしてこの土地に暮らす人々の生活をテーマにして始まった十日町市博物館は、1991年に「考古展示室」「中世展示室」を増築し、火焔型土器を多く出土する笹山遺跡をフィーチャーします。すると1992年この笹山遺跡から出土した火焔型土器を含む深鉢形土器57点が重要文化財指定を受け、1999年には国宝へ昇格します。これは現在でも新潟県で唯一の国宝となり、文字通り「お宝」が誕生したのです。このことは県内外から注目を集めて多くの来訪者を呼び、2020年には新たな施設を築いてリニューアルオープンしTOPPAKUの愛称で親しまれています。

正直「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」がきっかけで訪れたとはいえ十分に満足できた十日町市博物館です。歴史の授業で知ってはいた火焔型土器がこんなにも迫力があり、重く、得も言われぬオーラを感じられるものだと初めて知りました。岡本太郎が言うように日本文化のルーツであり、アートという概念すら生まれる前の太古の時代に生きた人々の願いのようなものまで感じられました。軽い気分で訪れるには少しハードルのある新潟県十日町市ですが、国宝である深鉢型土器は57点もあるため一度に展示することができません。研究目的での貸し出しもあったりするため、全てを見るには何回か訪れる必要があります。中でも最も保存状態が良く、美しいとされる1号の火焔型土器は今回展示されておらず、1番上の写真も実は6号の火焔型土器なのです。これは、またいつの日か1号を見るため、ここに戻ってきなさいねという縄文人からのメッセージなのだろうなと思って帰路についたのです。

釜石・大槌町へ行ってきました。

あの日から干支がひと回りし、東日本大震災から12年が経ちました。

JR花巻駅

今年は岩手県と釜石市が合同で追悼式を開くとのことから、釜石から大槌町へ訪問することにしました。

花巻から釜石への電車ルート

まずは花巻から釜石へ電車で移動をしました。各駅停車や快速などありますが移動時間の目安はおよそ2時間弱。一日の電車の本数が約10本ですのでタイミングには注意が必要です。

花巻といえば詩人であり童話作家である宮沢賢治の故郷ですし、途中の停車駅には柳田邦男の「遠野物語」となった遠野市もあるため、電車や駅には「銀河鉄道」を模した装いがほどこされているなど、思わず目を引く魅力にあふれています。

「宮守駅」の駅名標

というわけで、天気も良かったので遠野市に寄り道してみました。

遠野駅

本来は駅前の観光案内所にレンタルサイクルがあるのですが、冬季(12月~3月)は道路凍結などの危険があるためレンタルサービスはお休みです。なのでバスを利用しました。

遠野観光の基本中の基本は「伝承園」です。

「伝承園」入口

「伝承園」は民話の故郷である遠野のかつての暮らしぶりを見学することができます。

柳田国男の「遠野物語」は柳田翁が遠野の土淵村民であった佐々木喜善から民話を聞き集めた形式なのですが、伝承園には「佐々木喜善記念館」があり、実際に昔話を聞くことができる体験もできます。また、遠野に伝わる馬娘婚姻譚である「オシラサマ信仰」の御蚕神堂もありるなど古き遠野の暮らしぶりがリアルに感じることができます。

「御蚕神堂」

さらに伝承園から歩いてスグのところにある「かっぱ淵」ではかっぱ釣りができます。伝承園でもらえる「カッパ捕獲許可証(220円)」を携え、万が一にもかっぱが釣れた際には賞金1000万円がもらえます。かっぱで一攫千金を狙うのも楽しいですね。

→見つけた人はこちらに報告を

時にかなりの水流になる「かっぱ淵」

以前訪れたときはかなりの水量で一つ間違うと流されそうでしたが、この日の水量は穏やかなものでした。

かっぱの手配書

魅力あふれる遠野に後ろ髪をひかれながら釜石へ向かいます。

JR釜石駅・三陸鉄道釜石駅

遠野駅からは約1時間。太平洋に面した「鉄と魚とラグビーの街釜石」の入口はJRと三陸鉄道が併設する釜石駅です。

釜石駅の脇には「サンフィッシュ釜石」と「シープラザ釜石」という鮮魚店やお土産屋さん、食堂を備えている似た施設があります。

サンフィッシュ釜石(左)シープラザ釜石(右)

サンフィッシュ釜石とは、その昔、河川にかかる橋の上に鮮魚店が並んでいたその名も「橋上市場」が存在していたのですが、河川法に抵触することをきっかけに諸事情から解体され、その替わりとして2003年釜石駅前に設立された市場施設です。釜石物産センターであるシープラザ釜石と連絡通路で往来もできます。釜石でのお土産を買うならこの2施設で決まりだと思います。

釜石市民ホール(TETTO)

今年、岩手県の東日本大震災追悼式は、釜石市との合同で「釜石市民ホール(TETTO)」にて行われました。釜石市民ホール(TETTO)は、被災した釜石市民文化会館が解体されて2018年4月に生まれ変わった釜石市の公共施設です。釜石駅からはバスも出ていますが、少し歩けばたどり着くことができる距離で、巨大なAEONタウンに隣接しており繁華街の中心にあります。とても綺麗な施設です。

岩手県の東日本大震災追悼式典

時間が近づくにつれ多くの人が集まってきました。マスコミ関係者も大勢いました。

追悼式典会場内

式典は定刻に開始し、震災が発生した14時46分には黙祷を捧げました。来賓各位が止むことのない復興への姿勢を述べ、厳かな空気のうちに閉会しました。

続いて路線バスに乗り「鵜住居(うのすまい)駅」に向かいます。

三陸鉄道リアス線「鵜住居(うのすまい)駅」

三陸鉄道鵜住居(うのすまい)駅前には釜石市の東日本大震災復興アイコンとして「うのすまいトモス」という施設群があります。

鵜住居駅前「うのすまいトモス」

ここで少し三陸鉄道リアス線の復旧を時系列で確認します。

三陸鉄道の路線(久慈ー盛)

震災前は地図にある路線の青傍線部分が「北リアス線」、緑傍線部分が「南リアス線」、黄傍線部分はJR山田線(盛岡ー釜石)として運行していました。

2011年3月:震災直後、地域から愛された三陸鉄道は地元民の足としていち早く復旧を開始。

2014年4月:部分的に復旧を行ってきた南・北リアス線が供に全線復旧完了。

※JR山田線(宮古ー釜石)についてはJR東日本から昨年の陸前高田でも乗ったBRT(バス高速輸送システム)方式での再開を提案されるが、地元自治体がこれを拒否しました。

2019年3月:結局JR東日本からJR山田線(宮古ー釜石)の移管をうけ、三陸鉄道がリアス線として復旧完了。

とまあ、このようにJR東日本が放棄した山田線が、鉄道のまま三陸鉄道リアス線となって再開通しました。このタイミングで釜石市は鵜住居地区を永続的な復興シンボルとして2019年3月に「うのすまいトモス」を開館したのです。

「うのすまいトモス」には釜石市の追悼施設「釜石祈りのパーク」、釜石が過去からうけた震災の歴史を紹介する「いのちをつなぐ未来館」、地域のお土産販売や飲食スペース「鵜の郷交流館」といった施設があります。

釜石祈りのパーク入口

この日は無料の献花が用意されていました。

釜石祈りのパーク内

階段を上った上部にある黒壁に東日本大震災での津波の到達線があります。

いのちをつなぐ未来館
いのちをつなぐ未来館内1
いのちをつなぐ未来館内2
いのちをつなぐ未来館内3

過去から現在までに起きた地震津波についての記録を未来の防災への啓蒙として展示してあります。

また「うのすまいトモス」の近くに被災した中学校などが移転して新校舎を築いたり、エリア一帯を復旧にくじけない釜石魂の象徴として今後の発展が期待されています。

ひとしきり施設を見学して小腹を満たしました。

「鵜の郷交流館」のかけそば400円

鵜の郷交流館の券売機でかけそばを注文しました。ワサビが付いてくるのは珍しいですね。

そして再び三陸鉄道リアス線でお隣の「大槌町(おおつちちょう)」を目指します。

とても綺麗な大槌町(おおつちちょう)駅舎

大槌町は東日本大震災で被害を受けた多くの市区町村の中でも人口あたりの被害が非常に高かった町です。その被害の大きさから震災報道においても注目が集まることがしばしばあり、また話題の中心にもなったのが町役場職員に多くの犠牲者がでたことです。

大槌町役場跡につくられた慰霊碑

実に町役場職員の20%の人が亡くなったことは、震災だけに要因を求めるには困難な割合です。亡くなった方からではなく助かった人からの話しか聞けないため、事態の状況を正しく描くことが出来ないことが想像できます。

しかし近年になってNHKをはじめ各報道からその実態について輪郭のようなものが報じられるようになりました。それらによればハッキリと要因が確定されない状況を前提においたうえで、当時の役場組織が機能していなかったことが読み取れます。

そもそも町役場のあった場所は過去に浸水したことがある場所で、そのことから万が一の事態に陥れば役場を捨て、高台に避難して司令塔の拠点とする概要があったにもかかわらず実行されず、責任のある決定が遅れたことで逃げ遅れた人が大半であったというのです。

かつて町役場があったことを示す看板

震災を呼び水にして起きた人災ともいえる大槌町役場の被害は、町民だけでなく外部からも多くの避難を浴びました。そんなこともあって被災した町役場を震災遺構にする声も多く、外部から見る限りそれは自然な流れにも感じました。ただ一方で、見るのも辛いから解体して欲しいといった町民の声もあったりして判断が下されぬまま、ようやく2019年に解体することになったのです。

解体の決定理由として挙げられたことに”震災遺構とした場合の維持の難しさ”がありました。町役場を挟んでおこなわれた押し問答が続いた間にも、崩壊の危険があるためバリケードを作り、いたずらで入ろうとする心無い者の侵入を防ぎ、それでもゴミを投棄するといったことは後を絶ちませんでした。維持をするには当然費用がかかり、大槌町はそれほど大きな町ではないため嵩む費用の捻出に見通しが立たなかったことがあるのでしょう。こうして町役場は解体されたのです。

広い町役場跡地

一方で、町役場を残して欲しいという意見の中に「忘れてしまうから」というもあったそうで、実際に解体後は忘却してきている、という指摘もあるようです。たしかに外部の者としてみれば、初めは残した方が良いんじゃないかと思っていた自分も、事情を知るうちに、心境としてはそうであっても先立つものが無いと難しいなと思い直したのです。そういった意味で陸前高田の”奇跡の一本松”をなんとしても維持しようという判断には頭が下がりますし、地域ごとの事情もあることなので、新しい観光地を作るような軽い気持ちから維持を口にするのは、それはそれで問題だなあと思ったのです。

ちなみに陸前高田の訪問記録はこちら

そして最後にこの写真を撮って思ったのです。

大槌町役場跡

よく見れば解体されてしまった町役場跡の周辺には、震災によって移設を余儀なくされたとはいえ、真新しい野球場やバスケットコートで遊ぶ若者の姿が多くみれます。この遊戯場の隣に被災した旧町役場があるのは、なんとなく似合わないなと感じたのです。

確かに震災の記憶は忘れないようにしたいですが、それが旧町役場を残すこととイコールではありませんし、未来へつなぐという意味では、忘れないことは別の方法で工夫をするとして、町の一等地であるこの広い場所を前向きな利用で復興を目指すことも立派な判断だなとおもい大槌町を後にしました。

大槌町 東日本大震災追悼イベント「3.11集い~灯火~」